アラサーになっても、大人になりきれない
外に出るとき、少し怖い。身体が強張ってしまう。ただ外に出て、歩いていて、人を見かけるだけで、少し心がビクビク、ザワザワする。強い恐怖を感じる訳ではない。心臓がバクバクして、汗が止まらない、という訳ではない。ただ不安定さを感じる。首や肩に力が入り、心が張り詰めた状態で、ふとしたきっかけで心が大きく乱れそうな感覚がある。
僕はいつからこんな風に感じてしまうようになったのか。「外に出るのが怖い」「外にいると驚くほど消耗する」なんて、全く意識してない時期が僕にもあった。「疲れる」はもちろんあったけど、ただ外にいるだけで「緊張する」「怖い」と感じ始めたのは、20代後半、特に鬱になってからだと思う。
年齢を重ねるにつれて、自然と耐性が培われ、段々と強くなるものだと思っていた。今よりも若いときに気にしていたことが気にならなくなり、今よりも若いときに不安で怖かったことを簡単に対処でき、今よりより若いときに悩んでいたことも「あのときは、あんな些細なことで悩んでいたな」とより広い捉え方ができるようになるものだと思っていた。
どうやらそうでもないらしい。怠けていて十分な努力をしていなかったからか。経験が乏しいからか。鬱になってしまったからか。怖いと思うことの範囲が広がった気がする。想像するだけで憂鬱や不安が強まる事柄が増えた気がする。「成熟したな」と感じる機会もあったけど、多くの場合は「ずっとこのままなのだろうか」を突きつけられる。
ただ感覚として「何も変わっていない、むしろ恐怖や憂鬱が強まっている」と自分が解釈しているだけで、どこまで正確な解釈かはよく分からない。もし僕の今までの人生や精神をずっと熱狂的に観察してくれていた客観的な存在がいたとすれば、「主観的には『何も変わってないな』って思うかもしれませんけど、外から見ている私からすれば、結構成長してますよ!」と励ましてくれるかもしれない。
ただぼやっと眺めると、自分の脳の内側から自分を見て評価すると、「過去の悩んでいたのと同じような、小さいことで悩み、過去に気にしていたことよりも、もっと些細なことを気にしている」と感じる。
僕が文章を書き始めた理由はいくつかあって、その一つが「未来の自分のための記録」だった。記憶はあまり当てにならないし、多くのことが漏れ落ちてしまう。本当は覚えておきたいことも、頭の中に留めておこうとしても、抜け落ちてしまう。だから、しがみつくように、色々と書き始めた。
過去の僕が書き残したことを、現在の僕が読み返して「確かにこんなことがあった」「何とか頑張っていたな」「あまり変わっていないな」などと感じたい。具体的な評価がどうであれ、何を感じて何を考えていたかに触れられるし、何より、「確かに何かを感じていた」「確かに何かを考えていた」という軌跡があるのは、心の支えになるような気がしていた。
僕が今感じる「外に出たときの、人を見かけたり話したりするときの、恐怖、緊張感、不安」について、未来の僕はどう思うだろうか。「なぜあんなに怖がっていたんだろう」と不思議に思うだろうか。「今も同じだよ、怖いよ」と共感してくれるだろうか。
僕は今31歳で、何となくだけど、5年前、10年前くらいに思い描いていた30歳は、もう少し大人な存在だった気がする。実際、今30歳を超えて、思っていたよりも大人になりきれていないなと感じる。今の自分よりももっと大人な自分を過去に想像していた。「大人ってなんだ」って明確に考えていたつもりはないけど、漠然と「まだまだ大人になりきれていない」と感じる。
歳を重ねたら、「子どもっぽい部分、弱い部分」が自然と改善されていくものだと思っていた。恐怖や不安、執着や妬み嫉み、偏った理想や肥大化した自己愛も(綺麗サッパリ消え去るとは言わないが)ある程度はうまく処理できるようになっているんだろうなって想像していた。自分や人との向き合い方、距離感もいい感じに学んで、広い視野で、小さいことを気にしない、精神が成熟した大人になっているのだろうなと、(「精神が成熟する」って意味もよく分からないまま)漠然と思い描いていた。
最近読んでいる本に「思い込みや悩み、認知の歪みみたいなものから自然と脱却できると思っていたけど、実際は歳を重ねても脱却できず、歪みや悩みに溺れながら、振り回されながら生きるのが人生。綺麗に解決できないけど『いい塩梅でどう歪みや悩みを対処するか』自体が人生の命題かもしれない」と書かれていた。
「ただ歳を重ねれば、自然に悩みや不安、恐怖が軽減される、消滅していく」は楽観的すぎたみたいだ。些細なことを気にしてドキドキしてしまうとか、外に出ると少し恐怖を抱くとか、今抱いている悩みは、1年後も5年後も10年後も20年後も、ずっと残っているのかもしれない。思い描いていた大人にはずっとなりきれないまま、時間が流れていくのかもしれない。
これからどんな人生になるのか、少し楽しみだと感じることもあるし、調子が特に悪いときは「これが続くなんて無理だ、ありえない」と虚無感、憂鬱に包まれるときもある。そうやって波に溺れながら、いい歳をした大人の悩みとは思えない悩みに追われながら、生きていくのかもしれない。
前提に「悩みをすべて消したい」「完璧でありたい」がずっとあったからこそ、余計に「まだこんなことで悩んでいるのか」「ダメすぎる、未熟すぎる、弱すぎる」と強烈に感じていた。そして今「生きるってこんなもんだ」「悩みや不安に追われるものだ」という感覚を、何となく(頭の中では)理解し、体に馴染ませ始めた。その感覚は、その「ある種の諦め」は、少し心を軽くするものでもあるような気がする。
「もうどうにもならないから全く何もしない」とは少し違う。劣等感や過剰な自意識、憂鬱や強い自我に苦しみながら、「じゃあ歪みや悩みを100から99にするのは、自分の根っこのどんな部分と、どうやって向き合えばいい?」なんて考えながら、今後も踠いて生きていくのだろう。
1年後、3年後、5年後、10年後、これを読み返した僕は、何を思うだろうか。そもそも読み返してくれるだろうか。何かのきっかけで、衝動で、この文章を削除してしまってはいないだろうか。または、(書く力、読む力が上がっている証拠だからそれはそれでいいけど、)「文章が読みにくいから、面白くないから、読み進められない」と思ってしまわないだろうか。
もし読んでくれたなら、「やっぱ何も変わらず、年齢とともに体力は減ってさらにしんどいし辛いし、悩みも不安もどんどん増えるし、まだ大人になりきれてない感覚だ」と思うだろうか。「よく頑張ってるね、考えてることも良い線いってるし、頑張ってくれたから、踠いてくれたから、今はちょっと悩みとか歪みが減って、楽になったよ、ありがとう」と思うだろうか。まあ前者でも仕方ないなとは思うけど、できれば後者だと嬉しい。
おまけ
僕が好きなエッセイをおすすめしておきます。
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