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学ぶということ

先日、「自由な学校」という映画の上映会を行いました。徳島にある自然スクールTOEC(トエック)のフリースクール「自由な学校」の卒業生が撮影したドキュメンタリー映画です。一番印象に残ったのは、代表の伊勢達郎さんの言葉でした。細かくは覚えていませんが、こんな趣旨です。「私たちは、教えることはできない。育てることもできない。これは物事の捉え方の問題とかではなく、事実です。私たちが何かを教えて相手がそれを学んだ時、私たちは教えて相手が教えられたような気になっているけど、学ぶかどうかは相手が決めていることです。もちろん教えたことの影響は受けるけれど、それは教えられているわけではなくて、その人が学んだだけです。しかも、その人はその学んだことを捨てることもできるのです」

まさに、その通りだと思いました。しかし、私たちはそのことが分かっているようで分かっていません。例えば、こんなことがありました。ある子がトノサマバッタを捕ろうと、網を片手に追いかけていました。近づいていって、いざ網を被せようとすると、トノサマバッタは飛んでいってしまいます。トノサマバッタは飛ぶ距離が長いので遠くの方に行ってしまいます。それでも、目で追いかけトノサマバッタが着地したところまで行き、また網を被せようとしますが、また逃げられます。なかなか捕まえることはできませんが、その子は何度も追いかけ、ついに捕まえることができました。「すごいねえ。何回も追いかけてやっと捕まえたね」と言うと、その子は得意げに言いました。「トノサマバッタは最初のうちは遠くに飛ぶけど、だんだん近くにしか飛ばなくなってくるんだよ。」私は驚いて「えっ、そうなの?誰かに教えてもらったの?」と聞くと、「バッタを見てたら分かるさー」と言われました。

この子が得た知識が正しいかどうかとか、この子が体験から学んだことはしっかり身につくとか、そういうことをここで言いたいのではありません。この子はトノサマバッタと関わるうちに、自らこの知識を学びとったのです。そして、もしかすると、また別な経験をした時にこの知識は間違っていると捨てるかもしれませんし、この知識を自ら書き換えるかもしれません。私が言いたいのは、これが、学ぶということであり、実際に起きていること、事実だということです。

つまり、子どもに限らず人は、「周囲」と関わりながら、自ら何かを学んでいます。「周囲」は、自然とか人とかが当てはまりますが、「環境」という言葉の方が意味がぴったりくるでしょう。もし、教えようとする人がいたとしても、それは学ぶ人にとっては環境の一つでしかなく、そこから何をどう学ぶかは学ぶ人が決めることなのです。

しかし、教育に関わる多くの人は、教えれば教えられると思っています。しかも、教えたことが分からないのは、教えられた側に問題があるとされがちです。そこで、教える側は、あの手この手と教え方を工夫します。でも、教える側よりも、学ぶ側に工夫する体験をして欲しいと思いませんか?私たちは「教えれば教えることができる」という考えから逃れなくてはいけません。

では、私たちは、教えることができないとすると、できることは何でしょう?私たちができることは、学ぶ人のことをしっかり見て、何を思い、何を考えているのだろうと想像をめぐらし、今このことを相手に伝えたら伝わるだろうなというタイミングを見計らって教えることです。それでも、そう簡単に相手が学ぶとは限りません。いやむしろ、教えようという意図を捨てて、素のままの自分で関わる方が、お互いに学びが生まれると言えるのかもしれません。

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