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【証言集】 旧英領マラヤ(現マレーシアとシンガポール)を日本が占領した時代(太平洋戦争時)の現地の方からお聞きした証言集

matahari@マレーシアです。
マレーシアのクアラルンプールに住んで13年になります。

本業の日英通訳やイベントのバイリンガル司会の仕事を通して、さまざまな業種の方とご一緒する機会があります。
このような仕事柄、国籍や人種を問わず言葉の壁を取り払ってプライベートのお付き合いに発展することもよくあります。
そのような暮らしを通して、信頼関係を築いた人々から集めた家族の物語を、自分の言葉で伝えよう、とこのnoteマガジンに書き始めました。


noteマガジン - Before Too Late / 東南アジア日本占領時代編

Before (It's) Too Lateとは、日本語で「手遅れになる前に」という意味です。
太平洋戦争が「日本で」事実上終戦したと言われている1945年(昭和20年)8月15日から、78年。実は日本の外では(むしろ日本国内でも)戦争は終わる事なく続いていた・・・。戦争という悲惨な時代を体験した人々の心に残り続ける深い傷を、対話を重ねながら紐解き、願わくば少しでも赦しや癒しが生まれれば・・・と綴って来ました。

【証言】旧日本軍の将校だった方が日本に帰ることを諦め、この地で103歳まで生き抜いたたという衝撃の証言(証言者:カレンさん・中国とタイと日本の混血のマレーシア人)

「noteマガジン - Before Too Late / 東南アジア日本占領時代編」に綴って来た証言の数々は、筆者matahari@マレーシアが直接ご遺族にお聞きしたお話です。
証言者である友人との最初の出会いから綴っているので長文ですが、ぜひ読んでいただきたい内容です。

【証言】抗日分子(日本に逆らう者)という容疑をかけられ虐待された父を持つ男性からの証言 - 「父は想像を超える残忍な方法で傷つけられ、生涯その傷を家族にすら隠しながら生きた」(証言者:デイビッドさん・インド系とフランスの混血のマレーシア人)

マレーシアで外交官として活躍した70代の男性からの証言。
お父様の葬儀の日に衝撃の事実を知らされた彼が、赦しに至るまでの心情を筆者に語ってくださいました。さらに長文ですが、マレーシアの元外交官として様々なご経験をされたデイビッドさん(仮名)からの、日本国民であるわたしたちに向けた「第9条改憲に対するご意見」についても、ぜひ受け取って頂きたいと思います。

【証言】「泰緬鉄道」の労務者になった祖父から聞いた話(証言者:アイザックさん・インドのタミル系マレーシア人)

太平洋戦争中に、さらなる領土拡大を目指した旧日本軍が、タイとミャンマーを結ぶ軍事物資を運ぶための鉄道建設をしました。多くの連合軍(主に英と豪)捕虜やアジア人の労務者たちを使役し、多くの人が命を落としたため「死の鉄道」と言われています。

【証言】筆者の祖父の話(証言者:筆者の伯父・福岡県久留米市在住)

わたしが生まれる前年に亡くなり一度も会う事が叶わなかった父方の祖父。全くと言っていいほど祖父についての話を聞かずに育ちましたが、旧マラヤでのリサーチを通して、祖父がどんな足跡を辿ったのか知りたくなりました。そのきっかけとなった最初の伯父(わたしの父の6歳上の兄で、戦時中生まれ)との会話を綴りました。伯父との対話を通して、旧マラヤの歴史に対する興味関心もさらに強くなっていった頃です。

この記事から約3年後の2023年2月に、ようやく軍歴を調べるに至りました。その件については今年6月に開催した「平和のためのおはなし会 CROSSING」でも取り上げましたが、また改めて書いてまとめたいと思います(どこから書けば分からないくらい・・・両家の祖父たちの軍歴を知る事で人生がひっくりがえるような経験をしました)。

【体験談】日本の外から見た太平洋戦争について考えさせられた体験・息子が通うインターナショナルスクールの担任の先生(イギリス人)から思わず聞かされた事実

あるPTC(ペアレンツティーチャーカンファレンスの略・保護者面談)で、イギリス人の担任の先生と交わした会話の中で、思いがけない気付きを得られました。

日本人は、日本の外で伝えられる「太平洋戦争」について知らなすぎる・・・と痛感しました。インターネットの登場でコミュニケーションの垣根がほぼ無くなりつつある時代です。もっと思慮深くあれ、とご先祖さまが教えてくれているような、わたしにとってまるでふいにハンマーで殴られたような出来事でした。

最後まで関心を持って読んでくださりありがとうございます。
しばらく書き進める事ができず止まっていたnoteマガジンBefore Too Lateですが、おはなし会で伝えられる限界も感じているので、また少しずつ一歩ずつ書き進めていこうと心を新たにしています。(また止まってしまうかもしれませんが・・・汗)

背中を押してくださったあなた、ありがとうございます。

冒頭の写真 (2023年10月にTioman島Juaraの海岸・筆者撮影)

JuaraはTioman島の東側にあり、この地に行くには発展している西側から険しい山道を抜ける必要があります。四駆でないと行けません。
初めて2020年に訪れた時「この道、なんだか懐かしい気持ちがする」と思ったら、昔修学旅行で行った日光のいろは坂でした。
それからまもなく「この急峻な山道を最初に切り開いたのは英領時代の英軍だったけれど途中で断念して放置していたのを、最終的に完成させたのは後にマラヤを占領した旧日本軍だった・・・」と現地で知り合った英国人から聞き衝撃を受けました。
想像を絶する重労働だった道路建設に従事していた捕虜や労務者たちを監督していたであろう若い兵士たちは、「この海は日本に繋がっている」と想いを馳せていたに違いありません。

青い丸がフェリー乗り場
右端のTioman島までフェリーで2時間
Juaraに行くには島を横断します
シーズン中はフェリーでも行けるそうです
これから11月よりモンスーンでしばらく島は
休眠状態になりますが
また3月からリゾートも開きます

よろしければ、サポートをよろしくお願いします!いただいたサポートは、マレーシアでの平和活動を続けて行く際に、大切に使わせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。