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#2. インド系タミルマレーシア人の知人が話してくれた太平洋戦争の時代を生きたお祖父さんの数奇な運命

続きます。

前回の記事はこちらから


「僕のお祖父さんはさ、鉄道建設の作業員としてマレーシアからタイのある街に連れて行かれたんだ。」

思いがけない話の展開に、わたしは心の準備がまだ出来てなくて、アイザックの目を見つめながら固まっていた。「太平洋戦争から40年後」の話をしていたはずなのに、突然戦時中の話になり、頭がついて行かなかった。でも聞きたい、そういう心境だった。

「当時まだ若かったお祖父さんは体も丈夫だったし、日本が鉄道建設の作業員の募集を始めた時、その地区のタミルの連中とともに志願したんだ。タイまでの移動はトラックだったと聞いた。

しばらくして、まだ新婚だったお祖母さんの元に、夫の訃報が届いたんだ。この辺りから行った連中は全員犠牲になったらしい、と。お祖母さんは遺体もない中葬式をして、夫の遺影を飾って冥福を祈ってたんだ。毎日泣いてたってさ。」

あまりの話に、わたしは絶句しながら聞いていた。

「訃報から二週間が過ぎた頃、信じられるか?お祖父さんがお祖母さんの前にひょっこり姿を現したんだ!」

へ?

「お化けじゃないぜ。本物だった。ぼくのお祖父さんは、過酷な作業場から逃げ出して、タイからクアラルンプールの自宅まで、二週間かけて戻ってきたんだよ。途中は車に乗せてもらったり、ジャングルの中をひたすら歩いたりして、なんとか辿り着いたそうだ。逃げれなかった他の仲間はみんな死んだ。そのメンバーの中で生き残ったのはぼくの祖父だけだった。その後二人の間に子供が生まれた。それが僕の父だ。お祖父さんが戻ってこなかったら、父も僕も存在してないってことだな。」

「ぼくがその話を聞いたときは、小学校の低学年くらいの年齢だったから、詳細はよくわからないけど、その逃避行は大変な道中だったそうだ。祖父は90年代に亡くなったよ。もっと詳しく聞いておけば良かったよな。」

「たしか祖父が亡くなる少し前くらいの頃、日本政府が当時の(泰緬鉄道建設の)作業員に補償すると言い出して、バンサー(注:クアラルンプールの住宅地)に事務所を構えていたな。それ以来、日本人にこの話をするのは初めてだよ。」

わたしは家族のことを話してくれた礼を言い、アイザックは仕事に戻っていった。

お祖父様の話を誇らしげにするアイザックに、尊敬の念を持ちながら聞いた。

いつかこのお話を書いて伝えなければ、残さなければ、と思った。

アイザックの話を聞きながら、九州の田舎で戦後に生まれたわたしの父と戦争を生き延びた祖父母のことを想った。

わたしは自分の家族の物語をほとんど知らない。

今度日本に帰ったら、今は亡き祖父母についてもっと聞いてみよう。

戦後数十年後、日本人がマレーシアに“わんさか“やって来た頃、戦争でたくさんの仲間を失ったアイザックのお祖父さんはどんな気持ちで暮らしていたのだろう。今はその気持ちを想像するしかない。

当時を知る人がもし周囲にいるなら躊躇わずに話を聞いて欲しい。手遅れになる前に。

最後まで読んでくださってありがとうございます。

その他のマレーシア人(戦争体験者の子や孫の世代)の証言や活動の内容はこちらのマガジンにまとめてあります。


泰緬(たいめん)鉄道
 日本軍が1942年6月に建設を始め、43年10月に完成させた。タイとビルマ(現ミャンマー)間の約420キロを結ぶ。英領だったインドの北東部を攻撃しようとした「インパール作戦」のために、日本軍の補給路を確保する目的だった。
 国立豪戦争記念館などによると、日本は建設に、豪州、英国、オランダなどの連合国軍の捕虜約6万人と、東南アジアの約20万人の人々を動員。過酷な労働と生活環境によって、捕虜1万3千人前後と東南アジアの数万人が亡くなった。タイ西部カンチャナブリに建設された鉄道用の橋は、映画「戦場にかける橋」The Bridge on the River Kwai の舞台になった。
(朝日新聞の記事より抜粋)

トップ画像は、多くの死傷者を出し、Death Railway (死の鉄道)と呼ばれた泰緬鉄道。ここからお借りしました。https://www.bepal.net/archives/10009/2


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