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私の祖父と、「マレーの虎」が率いた久留米の兵士たち。【運命の分かれ道】② 〜記事最後に軍歴の調べ方をシェアしました

追記:記事最後に軍歴の調べ方をシェアしました


前回からの続きです。

前回の記事に使ったこの写真は、旧日本軍の「マレーの虎」と呼ばれた山下大将が、イギリス連合軍に降伏を迫るシーンです。シンガポールが陥落した日。

78年前の昨日。

1942年2月15日(昭和17年)。

この日を境に、状況は一転します。

旧日本軍が占領し、島の名前を「昭南島」と変更。かの有名なシンガポール随一の最高級ホテルであるラッフルズホテルも「昭南旅館」となり、陸軍将校の宿泊施設となりました。ここは、イギリス領だった頃にはシンガポールを訪れる欧米人の社交場だった場所で、アジア人は冷遇されていたそうですから、一夜にして日本によって立場が逆転してしまったのです。大変な屈辱だったことでしょう。

このようなエピソードから、1942年2月15日(昭和17年)を境に、いかにシンガポール人や、イギリス連合軍の関係者たちの運命が、日本人によって変えられてしまったかを、少しでも想像できるかもしれません。

私の祖父と地元久留米に話を戻します。福岡県久留米出身の兵士たち(第18師団)を率いたマレーの虎(山下大将)によりマレー作戦が実行されたことは前回の記事に書きました。

シンガポールを陥落後、英雄として凱旋帰国できるだろうと想像した兵士たちの望みは、あっけなく打ち砕かれます。

勢いに乗った大本営は、領地の拡大を目指し、兵士たちはまるで将棋の駒のようにアジア域内を北へと移動させられていきます。

イギリス連合軍の捕虜を酷使しタイとビルマ(現ミャンマー)を繋ぐ泰緬鉄道建設や、東マレーシアボルネオ島の空港建設などを次々に立案。たくさんの連合軍捕虜が犠牲になりました。

また、ビルマ戦線からインドの連合軍基地インパールを陥落させることなどが立案されます。例に漏れず、当時最強と言われた第18師団(別名菊兵団)の兵士たちも、最も難しいと言われた戦地ビルマのジャングルへと向かいます。

その後の兵士たちが経験した惨状については、また後日書いていきます。

こんな過去記事も良かったらどうぞ。

タイにあった連合軍兵士の捕虜収容所が舞台の、泰緬鉄道の建設中のエピソードを描いた映画。戦場にかける橋。はとても有名ですね。先日ご紹介したThree Came Homeと同じ俳優ハヤカワセッシュウが日本人陸軍大佐を演じています。


ところで、「マレーの虎」は、その後どうなったか?

アジアでは、ヤマシタの名前はとても広く知られていて、戦後A級戦犯で容疑をかけられフィリピンのマニラで処刑されますが、アジア各地で奪った財宝をどこかに隠しているという噂が囁かれ「ヤマシタゴールド」と呼ばれています。

過去記事でご紹介した映画「夕霧花園 The Garden of Evening Mists」にも、抗日ゲリラの兵士が「ヤマシタゴールド」のありかを教えろ!と阿部寛さんが演じる有朋に迫るシーンがあったりします。

また気が向いたら「ヤマシタゴールド」を巡るフィリピン国内の話題などについても書きたいと思います。

シンガポール陥落後の「マレーの虎」の足取りを詳しく知りたい方は、こちらからどうぞ。敗戦の将が、フィリピンで処刑される前に遺したとされる遺書の内容も、こちらから読めます。


そんな中、私の祖父は体調不良のため戦地に行くことはなく久留米の陸軍病院に入院し内地に残り、昭和18年には一人目の子が生まれ、昭和22年と24年に歳の離れた弟たちが生まれました。末っ子が私の父です。

終戦を迎える直前の、1945年8月11日(昭和20年)に久留米大空襲が起き久留米の中心部は米軍の約百五十機(B24・B29・その他)に襲われ、市街地の7割が消失しました。その戦乱期も、祖父と祖母とまだ幼なかった伯父が生き延びたため、終戦後に二人の弟たちも生まれ、現在に命を繋いでくれたのです。

終戦後、アジア(タイ、ビルマ、満州、台湾など)で戦って生き延び復員兵たちが久留米に戻り、町の再建復興が始まりましたが、当時の久留米で暮らした一家は、想像を絶する貧しさだった、とのことです。末っ子の父が生まれた1949年(昭和24年)頃でさえ、食べるものがほとんどなく、小さな田んぼを耕し、内職しながら必死で働く親の姿を見ながら育った父。

早々に学業を諦め、15歳という若さで就職列車に乗り横浜に向かいました。日本の高度成長期を支えた製造業のグローバル企業に就職した父は、ついに九州に戻ることはなく定年まで勤め上げました。

横浜で家庭を持った父と母ですが、同僚に同郷の人が多かったせいか、何年経っても久留米弁が抜けず、家では方言が飛び交っていました。母も同じく福岡県の出身です。

ずっと父と母の心には、九州のふるさとに帰りたい想いがあったのでしょう。

私の祖父は、初孫(私)が生まれる1年前に若くして他界してしまいましたが、祖母はその後83歳まで伯父一家と共に暮らしました。横浜から帰省する度に、私と弟をとても可愛がってくれました。伯父の子供達3人とも歳が近く、横浜から久留米への帰省はとても楽しい思い出です。父と母にとっては、きっと毎年の帰省は大変なことだったはずですが、寝台列車や飛行機で毎年連れ帰ってくれたことを今はとても感謝しています。

一つ、後悔していることがあるとすれば、祖母の話を、戦時中後の話をもっと聞いておけば良かったこと。(久留米弁で何を言ってるか分からなかった、というのもありますが笑)

もし、これを読んでくださっているあなたのお祖父さんお祖母さんがご健在なら、是非むかしのお話を聞く機会を持ってみて欲しいです。私からのお願いです。

多くの何万という数の若い兵士たちは、故郷の地を二度と踏むことなく、アジアで無念の戦死を遂げました。

私たちが今ここにいるのは、奇跡なのです。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございます。(想いが溢れて基本長文になってしまいます。すみません汗)


<<画像は、久留米大空襲直後の市街地。西日本新聞のWebsiteからお借りしました。>>


ご興味のある方は、ご存命のご親族にお話を聞いてみる、残念ながら亡くなっている場合は、軍歴を調べてみてもいいかもしれません。
わたしは、この記事を参考に祖父の本籍地のある福岡県庁に問い合せましたが、大変丁寧にご対応いただきました。

よろしければ、サポートをよろしくお願いします!いただいたサポートは、マレーシアでの平和活動を続けて行く際に、大切に使わせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。