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#2. 「葬儀の日に初めて見た父の背中には無数の傷があった。」マレーシア人の友人が話してくれた彼の両親の壮絶な人生


前回からの続きです。

不思議なご縁で知り合ったマレーシア人のデイビッド。

その日、奥様のシンシア(共に仮名)を伴って現れた。

デイビッドが大学時代からの付き合いで外交官時代に世界各地に駐在していた時代を苦楽を共にした奥様と聞いていたので、お話を聞かせていただくことを同じ女性としてとても楽しみにしていた。

約束通り、ご夫妻とミャンマーから迫害されマレーシアに逃れている少数民族難民の子供たちが学ぶ学校へ一緒にボランティアに向かうことになった。クアラルンプールから車で南に30分ほどの町に、その学校はある。

その日、行きと帰りの車の中で、デイビッドとわたしは、奥様のシンシアを交えて初めて会った日の会話の続きをした。

この日が三度目だったけれど、デイビッドから投げかけられる質問はいつも単刀直入で無駄がなかった。短い時間で物事の核心に辿り着く。

「わたしは、初めて君に会った日に、日本の憲法第9条の改憲についてどう思うか尋ねたよね。君は反対だと言った。

わたしは、逆で賛成だった。日本にとって改憲は必要。昨今、中国の脅威が増すばかりで、マレーシアのような小国は中国に返しきれない借金を背負わされ、このまま行けば、武力などを使わずに知らず知らずのうちに植民地化されている状況がやってくる。やがて日本だってそのようになってもおかしくない日が来るだろう。米国に頼らずに日本が本当の意味で自立するためにも、一日も早い改憲が必要だ、というのがそれまでのわたしの意見だった。

それを伝えると、その日、君はこう返した。

「あなたはかつてマレーシアを占領し苦痛を与えた日本がまた武力を持つことに抵抗はないのですか。」

わたしがこれまで出会った日本人で、そこに言及する人は稀だった。

誰もその当時の話をしたがらない、という印象を持っていたんだ。少なくとも外交の現場では。仕事以外で知り合った日本人の友人とは、その話題を振っても、良く分からないと言われることがほとんどだったんだ。自分の国のことが分からないとは何事だ、と思っていたんだがね。

だから、今日あなたともう一度話す機会を持てることを、楽しみにしていたんだ。」

その日、デイビッドは、ハンドルを握りながらも饒舌だった。

「わたしはペナン(Penang)、妻はアロースター(Alor Setar)の出身です。わたしたちマレーシア人の多くは、日本の占領が始まり終戦を迎える3年半もの間、非常に困難な時代を過ごしました。」

助手席に座っているシンシアと、後部座席にいるわたしは、ただ静かにデイビッドが話すのを聞いていた。

初めて会った日に突然難しい質問をされドギマギしてしまった時と違い、わたしには心の準備ができていた。

あの衝撃的な出会いの日と、二度目に偶然会った日から、ありとあらゆることを調べたり考えたりしていたので、わたしはデイビッドに聞きたいことや、伝えたいことが、山ほどあった。

だから、デイビッドが語る言葉を聞きながら、固唾を吞んで構えていた。

「君は、わたしの話に関心を持ってくれているので、今日は戦争時代をペナンで生き抜いた若き日のわたしの父と母の話をしようと思うけれど、いいいですか。」

「もちろんです。ぜひ聞かせてください。」

「今から3年前、わたしの父が亡くなりました。94歳でした。葬儀の日、遺体に装束を着せるときわたしは立ち会っていて、目を疑った。

父の背中全体に無数の小さな傷があったんだ。まるでタトゥーを掘ったように腰の辺りまであった。驚いて、近くにいた兄に聞いたら、しばらく黙り込んでしまった。それから重い口を開いた兄は、

日本人にやられたんだ。

とだけ言った。葬儀の全ての日程が終わり、二人きりになった時、もう一度兄に尋ねた。父に何があったかを。

父は次男であるわたしには一度も話さなかったことを、長男である三つ年上の兄に一度だけ話したことがあったそうだ。それ以来、一度もそのことは口にしなかったらしい。

兄によると、戦時中日本軍が統治していたペナンで、抗日分子と言われる人々が(主に中華系の人々)日本軍に連行され、虐待を伴う尋問を受けていた。まだ当時20代になるかならないかだった若い父は、インド系マレーシア人にも関わらず抗日ゲリラに関わっているという容疑をかけられ、1週間にわたり壮絶な虐待を受け続けたそうだ。

父の背中にある無数の小さな傷。それは、棘棘とした突起のある魚のエイの尾を乾燥させたもので鞭打ちをされた時に出来たものだった。

酷い虐待を与え続けた上、父から何も情報が出てこないことを知ると、日本軍は父を釈放したけれど、その後も長いこと不衛生な状況や栄養状態が悪かったために化膿した背中が治らず大変な思いをしたそうだ。それが原因で、傷が完全に癒えた時には、無数の傷痕となって残ってしまったんだ。

わたしが覚えている限り、父はわたしたち兄弟が大学を卒業し就職した頃も(ちょうど日本とマレーシアの貿易が盛んになった1960年代頃)絶対に日本を許さないと言って、日本車や日本製品を一切買おうとしなかった。マラヤが日本に統治されていた頃から15年の歳月が過ぎていた。当時、国際ビジネスや外交の現場には、軍人経験者が数多くいる時代だった。

ところが、ある日、わたしが仕事を通じて知り合った日本人との出会いが、父が日本への態度を軟化させて行くきっかけとなったんだ。

(その日、デイビッドが運転していた車は日本車のホンダアコードだった。)

彼は、ペナン州のバターワース(Butterworth)に工場を建設した日系製造業の駐在員だった。」



続きます。

トップ画像はこちらのウェブサイトからお借りしました。
1960年代のPenang Road

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