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テニスを教えない、テニス部の先生

「恩師」と呼べる先生はいない。

それは別に先生が悪いわけではなく、自分が先生とよく話すような生徒ではなかったし、手のかかる生徒でもなかったから、先生との思い出深いエピソードが特にない、という意味である。

今まで僕と関わった先生に、「思い出深い生徒はいますか?」と聞いて回っても、きっと自分の名前は挙がらないと思う。

教員生活を何年も送っている先生にとって「生徒」は何百・何千人といるわけで、自分なんてOne of themに過ぎないけれど、生徒にとっての先生はそれほど多くないはず。

だから、こんな自分でも、数こそ少ないものの思い出深いエピソードはある。


「学校は社会の縮図」だと最初に言った人はすごい。

僕らはいつの間にか、学校生活を通して、社会に適合するための必要な知識や技術を身につけていく。

小学1年生の時、小学6年生と手を繋いで遠足へ行く。

中学1年生の時、ボールを使って練習する先輩たちの横で素振りをする。

そのような経験から、自然と、年配者の方が偉い・すごいという感覚が分かってくる。

1年生がボールを使って練習なんてできないし、当然試合に出れるわけもない。「下積み」という言葉を初めて知ったのもこの頃だろうか。

きっと、進学した高校が違っていたら、今に至るまでずっと年功序列的な考え方のままだったかもしれない。

けれど、今の僕は「年功序列なんてクソくらえ」とまでは思わないにしても、それくらいのことは思っている。

年齢や年次に関わらず、実力があれば相応のポジションや役割を任せられるべきだと思うし、もし誰かのもとで働くなら、そういう判断のできる人についていきたい。

もちろん、その代わり「若いからしょうがない」は通用しない。責任の重さだって年齢とは関係ないのだから。

そういう「実力主義」の考え方、そういう社会も存在するのだ、そんなことを高校生の時、部活の顧問から教わっていたのかもしれない。

あの時、1年生ながら、先輩と試合をする機会を与えてくれたこと、大会のメンバーに選出してくれたこと、事実以上の意味があったのだと思う。

おかげで、何をするにも年齢は関係ないと様々なチャレンジができたし、そんなカルチャーのある環境や人付き合いを自ら選択してこれた。


「教育」に正解はない。

国家百年の計と言われるくらいだから、答え合わせは百年先かもしれない。

だからこそ、何をどれだけ与えるかより、何をどれだけ残せるかが大事なのだと思う。

僕がこないだテニスをした時に全く思い通りにプレーできなかったことが、何よりも、はっきりとそう裏付けていた。

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