「普通でいたくない」のが普通
普通でいたくない、何者かになりたい、これが“普通”なのかもしれない。
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今までそれなりに人生を生きてきて、それなりに失敗してきたけれど、どうもそれらの失敗は自分の中で美化され過ぎてしまっている。
「あの失敗があったから」
そう思える失敗もたくさんある。
いや、全ての失敗があったからこそ今があると思っている。
そう思えているくらいには、自分の中ですでに美化されてしまった。
「#あの失敗があったから」
コンテスト作品募集開始の日から今日まで一文字も書けなかった。
大切な人との別れ、仕事での大きな挫折、学生時代の壮絶な経験、自分はそういう衝撃的な経験の数々を今のところしていない。
もちろん「失敗」の解釈や価値は人それぞれだし、決して人と比べるものではないと分かっているけれど、コンテスト作品として出す以上どうしても「普通の作品にしたくない」との思考は避けられない。
ただ、「普通の作品にしたくない」と思っているだけで、結局一文字も書くことができなかったら本末転倒だ。
そして、この「普通でいたくない」とのあり方が、何よりの失敗だったのかもしれない。
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「普通は嫌だ」と発信する人はいても、「普通になりたい」と発信する人はあまり見かけない。
実際、突拍子もないアイデアを閃く人や並外れた感覚を持つ人、僕らから見て“普通でない”と感じる人たちは、心の奥底で「普通になりたい」と願っているのかもしれない。
しかし、SNSで見かけるのは、しばしば「普通でいたくない」と願う人たちだ。
だから、「普通でいたくない」という感覚は、ある意味普通の人の感覚なのだ。
それに気づくまでに一体何年かけてしまったのだろう。
今まで「普通でいたくない」との気持ちを原動力に色々なチャレンジをしてきた。
受験生時代みんなが行かない塾に通ったり、大学在学中にビジネスを始めてみたり、大学を中退したり、会社の創業に参画したり、転職したり。持ち物や道具ですら、人と被ったりするのが嫌だったほどだ。
これら全ての行動の目的が「普通でいたくない、特別であるため」だったわけではないけれど、主要な原動力であったことは間違いない。
ただ、「普通は嫌だ」と願えば願うほど、その信条のもとに行動すればするほど、どういうわけか「普通」になっていくような感覚に襲われる。
結局僕らは普通の人間だから、普通の人間が考えたり行動することは、たいてい似通っている。
「ああ、普通でいたくないと思うことが結局普通なのか」
どこまでいっても普通。そんな現実をまざまざと突きつけられたような気分。
「特別」を追求する生き方はしんどい。
これから先も感じるであろうジレンマを、数十年間乗り越えられる気がしない。
どうあがいても、広く見れば、自分の人生は誰かの人生のハイライトを辿っているだけだ。
誰に頼まれたわけでもないのに、自分で重い荷物を背負い過ぎなんだと思う。
小学校低学年の時、ことあるごとに歌わされた名曲が僕らに何を伝えたかったのか、今なら少し分かる気がした。
そうさ 僕らは
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
「自分という一人の人間であること自体がすでに特別」
と思えるほど、この曲はまだ自分に刺さっていない。もう少し時間がかかりそうだ。
自分は一体どんな種を持っているんだろう。
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