#自伝
僕の体験した東京の90年代 第11回 小沢健二 フリー・コンサート@日比谷野外音楽堂
当日は一体何人くらい日比谷野外音楽堂を目指したのだろうか?
日比谷公園の規則もあり、徹夜で並ぶのは厳禁。
告知をして、3日前からスタッフが夜回りをし、その度にお帰り頂いた。
僕の体験した東京の90年代 第10回 小沢健二、高橋恭司との出会い、フリー・コンサート前夜
アーティスト写真を作成するにあたり、カメラマンを誰にしようか?
と悩んでいたある日、小沢君から、Joel Meyerowitz(ジョエル・マイロウィッツ)のような写真を撮る人はいないかな?とアイデアを受ける。
この感じいいんだよね!と「A Summer’s Day」の写真集を見せてもらった。
すごくいい!僕にとっても初めて見る色彩だった。
今でもマイロウィッツは好きな写真家で、インスタもフォロー
僕の体験した東京の90年代 第9回 ネオアコ、él レーベル、そしてロリポップ・ソニックとの出会い。
話は少し80年代に戻る。
1982年にCherry Red Records(チェリー・レッド・レコード)よりリリースされた、いまでも語り継がれる名作コンピレーション・アルバム、「PILLOWS & PRAYERS 」からは多くの刺激を受けた。そういう音楽ファンは他にも多いと思う。
同じ年にLes Disques Du Crépuscule(クレプスキュール)からはThe Pale Founta
僕の体験した東京の90年代 第8回 小沢健二 日比谷野外音楽堂への想い
小沢健二のマネージメントをすることになった僕だが、
オリジナル・ラヴの時のように全てプロデュースすることはなかった。
もちろん様々なアイデアは出したけれど。
天気読みのデモ、そしてレコード会社との契約、早速アルバムのレコーディングに入っていた。
小沢健二デビューにあたり、フリッパーズ・ギター時代を知る多くのファン、更なる音楽ファンに、なにが新鮮に映るかを考えていた日々だった。
僕の体験した東京の90年代 第7回 小沢健二
富ヶ谷にあった僕の事務所は地下にあって、ちょっとした異空間だった。
初めての自分だけの場所。
それは幼少期から作っていた「基地」だったかもしれない。
「宇宙」をテーマに。
デスク・スペースには銀色の鉄板がテーブル代わりに。
そこに60年代に実際に使用されていた電話、とアクリルで出来た椅子。
そこに僕が東急ハンズで毎日のように買ってきたホワイト、ピンク、ブルーの風船が膝丈くらいまでに。
それをか
僕の体験した東京の90年代 第6回 オリジナル・ラヴ のプロデュース、マネージメントを終了するまで。
1991年11月20日にセカンド・シングル「月の裏で会いましょう -Let's go to the darkside of the moon-」が発売。
この曲は高城剛が初めて監督したテレビ番組「BANANACHIPS LOVE」の主題歌にタイアップが決まって、さらに認知度が高まった。
でもこの辺りから、これから自分は芸能界の仕事をしていくのだろうか?と葛藤が生まれ、のちに離れることに繋がってい
僕が体験した東京の90年代 第3回 オリジナル・ラヴとブルートニック 必然性のある偶然の出会い
初の渋谷クアトロ・ワンマンを大成功に終え、
3カ月毎のクアトロでのレギュラー・ライブがスタート。
田島君のやりたいサウンドにメンバーが入れ替わり、立ち替わり。
そんな中、レッドカーテンの頃からのオリジナル・メンバー小里誠が去ることになる。(その後彼はコレクターズから自身のユニット、フランシスで活動中。うちのパーティにも参加してくれている。)
ベースを誰にしよう?オーディションを繰り返す。
僕が体験した東京の90年代 第2回 ピチカートファイブとの出会い。
田島貴男君との出会いの前に、
やはりピチカートファイブとの出会いの話になるかな。
初めてピチカートのライブを見たのは渋谷パルコ・パート3だったと思う。細野晴臣さんのノンスタンダード・レーベルのイベント。
ブルートニックとピチカートファイブの対バン、に僕がDJとして参加。
まだデビュー・シングル「オードリー・ヘップバーン・コンプレックス」がリリースされたあたり。
その後、CBS SONYから出
僕が体験した東京の90年代 第1回 オリジナル・ラヴ
オリジナル・ラヴは僕が初めてトータル・プロデュースとマネージメントを手掛けたバンドだ。
サウンドはもちろん、スタイリングからアルバム・ジャケットの
ビジュアル、ステージの演出まで全てを手掛けた。
1991年10月21日、オリジナル・ラヴ 初のホール・コンサート。
会場は渋谷公会堂。
メンバーの衣装は、僕が当時コレクションしていたスーツ、エルメネジルド・ゼニアの型をモチーフに、特注で誂えた紺の