hirokiyamashita

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20240927仮説

人は流転という迷いの性質を持った存在 迷いの対象(物事の流転)に気づく(理法への気づき)から迷う・疑う 迷いの対象に気づいていない場合は、迷いようのないと考えられるその対象を固定的に妄信する(分別的)迷妄状態といえる 分別心で迷妄に陥る、分別心は固定的な事柄を見いだす・それを固定的に判別する心で、流転(固定的なモノはない)を考慮していない 気づきとは分別心(物事を固定的にみる反流転の心)の非情さへの気づきといえる

    • 20240924

      欲(感情)に流されない・欲(感情)を抑える・欲(感情)にかつ そもそもこの言葉(悪の存在を見いだす事)は矛盾してると思う 生き物は流れる感情(心)の存在として 人は感情(心・欲)の流れに流されて当然だと思う このような欲(感情)を敵視した考え(その立場)は暴力的といえる 偏ったもの(感情・欲)を殺せという話だと思う(仏陀は言わないと思う) 「欲(感情)は本質的に暴力的存在だ」などという分別・決めつけがあると思う あらゆる決めつけ(分別心に基づく)の立場に対して仏陀は決めつけな

      • 仏教と神道について

        煩悩と煩悩の軋轢によって苦は生じるとして 煩悩を滅するべきという心も煩悩と考えられ 煩悩へのこだわり(偏った見解)は煩悩といえるか 煩悩とは邪見(貪瞋痴.迷妄)による偏った拘りか 邪見が無ければ正道がみえる(正見)として 仏教における悟りとは、邪見(見.邪見)への悟りか 邪見は心(慈悲心)の不和か そうすると、邪見の無い(心の不和がない)仏陀を大慈悲心と考えられ そのような仏陀による仏教というのは、邪見・正見(心の不和・調和への道)についての教えと考えられるか だとすると仏

        • 仏陀が示す幸せとは・悪とは

          幸せとは自然の流れ(仏法・仏陀)を信じる道 それは仏陀の価値観にそぐう道(仏陀の道)であって、その道に近い所を通るほど幸福があると思う 欲が不幸(不幸を生む)というより、欲を起こすような非仏教的な価値観が不幸(幸福の道からそれている)と思う 過剰な・歪んだ欲というのを不幸を生み出す不の存在(悪の存在)と認識するは、偏っており暴力的だ 欲はなくなればいいというものではない 欲を生じさせるその歪んだ価値観が仏教的に和されるという考えの方が暴力性が低くて優れてると思う 仏教において

          疑心とか不和を殺すと和する

          仏陀の境地と禅定と業と世間、この4つは人間に理解しきれない ということだけど、だからと言って疑うのが無駄だからやめろとは言わないと思う 疑いの心(不和)は滅するのではなく和されるべき 仏陀が言わなそうな言葉:〇〇は無駄である(空しい事ではあるかも知れない) 疑うの本質的な心は、疑義を正そうとする心であり、自分が暗に理解しなくてよいとしていたものに対して理解するべき事柄ではないかと自分自身を疑う心か その事柄を理解しえるのではないかという希望もあるし、疑心について前向きな心だ

          疑心とか不和を殺すと和する

          「悪を殺す」と「不和を和する」

          めも 「悪を殺す」と「不和を和する」 これはどう違うのか 殺すべき悪と和するべき不和 悪とは調和を乱すモノだから 世界から悪をそぎ落とす 腹が減るとその人の調和は乱れる 腹が減ってることを悪として 食べ物を食べて調和をとる 悪を殺す、そぎ落とすという感じより 和するという感じがする お腹が減って悪の心が起こる(悪者になる) 悪者は殺せばいいというより、空腹を和すればいい 悪者が、何で悪者なのかを理解するべきだということ 悪としていたものを不和として捉える 罪(心の

          「悪を殺す」と「不和を和する」

          2024年4月

          慈悲忍辱、レベルの高い慈悲に対してレベルの高い忍辱がある 無慈悲で非情な問題が、より優れた慈悲心(非情さ)で解決される 優しいはない マシな非情はある 優しいは見つけられない、非情から救い出してくれるマシな非情はある 仏教的には大慈悲心という完璧な慈悲心(優しい)がある 仏陀にしか見いだせないものと考えられる 慈悲心は歪んでいて、その摩擦で分別がある 歪み偏った慈悲には無慈悲さがあるから 大慈悲心にはそれがない 大慈悲心はあらゆる方向性の慈悲を包括した価値観 一般的に慈悲

          真理と法

          真理と法 この世界の普遍(量子レベルの)法則(仕組み)を真理という 因縁の関係で因果法則の流れ(量子スピンによる回向)を起こしており、それを真理の流れ(法)と言える 真理とは物事の変化(回向・流転)においての、根底(普遍)の仕組み 真理(仕組み)の絶対的な性質を法(法則)という 例えば、真理が仏陀(真理の人)で、その真理に基づく慈悲心(仏心)の流れを理法の存在であると考えられる 個々の生命はそれぞれが別々の方向を向く仏心(仏性・悪性ともいえる)の存在であり、見方によってはど

          2023年1月に作った俳句など

          8日 水は水 ぴちゃぴちゃざばー苦しいな 波動と愛 光と紐で 苦しいな 好き求め 嫌いは嫌い 人生だ 心から 思うあなたは 何者だ 歪みを見 中正求む 心あり 皆愛で 方向違い ぶつかりあい この世界大きな川の 流れなり きもちいな きもちいい きもちいい 私の詩これは暴力違うかな こだわりの 新鮮卵 はいったよ 私波 私を通す 波強く 金平糖 金平糖ったら 金平糖 私はね 短く歌う 歌うたい 読んだとき どう思うだろう 愉快である 哀しいかな

          2023年1月に作った俳句など

          波動として考える②

          仏は太陽のような存在 最も苦しみを与える存在であり、最も慈悲深い存在 個人が社会を本質的に変えることはできない仕組みが、この世界の仕組み。 個人は個人より小さいものしか変えられない、自分自身とか。 社会全体がゆらゆらとした波動的存在で、矛盾の性質を持つ、天に逆らう存在(逆らいきれない) 自分自身(自我)は生命体(人間)としての個人に逆らいきれない、人間としての性質を変えられない 個人は社会の流れに逆らいきれない、社会を本質的には(流れは)変えられない 地球全体は天の絶対的法

          波動として考える②

          最近考えたこと①,②,③

          ① 何ものにもとらわれていないような研ぎ澄まされた心身の状態での、直観的な経験をもとに自身を顧みたときに気づくものがある より直観的な経験から、自身のより本質的な性質としての、偏り・歪みに気づく その偏りによる生命としての普遍的な苦しみについて思いを巡らせる 自分の弱さを知って外界の弱いものに気づいたり、それに対する理解をもてる 本質的で普遍性の高い苦しみに対し、より本質的で普遍性の高い慈悲心が起こる 完璧な自覚などなく、その人が気づいたものは副次的な性質に変わりないとか思

          最近考えたこと①,②,③

          仏教・反仏教という対立、仏教観、仏教の意義、和する

          人は仏教的な性質と、反仏教的な性質を持っている、とか 仏教を学んだり、修行を行う事で自身の内の反仏教の性質を征するという考え 仏教の意義とは、その様な対立する物事・観念・わだかまり、を和する事ではないか。 仏教を学ぶという事は、それによって形成される中正的な観(仏教観)をもって、中正的な観念を形成していく事であり、それによりお金観や、仕事観など、その他の「観」の偏りを知る事、その偏りを和する事に繋がる。 中正的・普遍的な、観・心のありよう・仏教観が不和を観ずる心であり、和

          仏教・反仏教という対立、仏教観、仏教の意義、和する

          波動として考える①

            自身を波動である観の存在として考える 常識・観念が偏っている可能性があるから 常識を疑え(自身の常識的な観念を疑え)という 「念」がその人の常識・思い込み・観念 「念」が偏っているのは、それを作る「観」が偏っているから 本質的な問題は観にある 観があり それに拠るもの 観念か 観(少なからず歪んでいる)があり、そのうえで観念(分別・絶対視・妄想という歪み・偏り)がある プロタゴラス「人間は万物の尺度である」基準あり(個人がはかることによる絶対性がある) すべての人

          波動として考える①

          人間性と自己超越について

          人間性は人間の愚かさにあり、人間として自己の愚かさを超越した内なる秩序にたいする自覚を深めること が人間性を求める・深めるという事。 その自己の内なる超越的秩序における自己の絶対性(絶対的価値観)という信仰対象(超越性)によって 自己矛盾を超えていく(自己超越する)ことになる それは自己のうちに超越的・普遍的人格(人間性)を求める事といえる。

          人間性と自己超越について

          観と観念の歪みとその調和・高い多様性を持った観念・疑いの念・慧眼・不和に気づく・悟りへの道

          みんな洞察している(洞察に基づくその人なりの観点・価値観・観念・信念・信仰、はかりがある)が、その深さ(はかりの正確さ・歪みのなさ)が違う。 例えば、疑いなくアニメで見る天国や地獄のイメージ(観念)を信じたり、死んでも同じ魂をもって生まれ変わる事のイメージ(観念)を信じる。 科学的に矛盾だらけでもこのようなイメージを信念としてしまう。 各々が自身のはかりに対し信仰をもっていて、それはその人なりに信じている物事の価値基準といえる。 人間とは基本的に自身のはかりやそれによる価値基

          観と観念の歪みとその調和・高い多様性を持った観念・疑いの念・慧眼・不和に気づく・悟りへの道

          人の行動原理とその支配構造を楽器として考える

          人間を楽器として例えるなら、心身が楽器の弦とボディ(共鳴胴)で、弦のはじかれ方(自己と外界との相互作用)が観であり、観から観念の波動ができる(観念の形成)、観念(信念・信仰)の波動は共鳴胴によって増幅され思いや行動になる。 人の思いや行動は、観念の波動による倍音という形で生じる波動であり、観念の性質(信念・信仰)が反映される。 観が観念を、観念が、思いや行動を、という支配関係がある。 だから、やさしい(慈悲心のある)観が、やさしい観念を作り、優しい観念が、やさしい思いや行

          人の行動原理とその支配構造を楽器として考える