疑心とか不和を殺すと和する
仏陀の境地と禅定と業と世間、この4つは人間に理解しきれない ということだけど、だからと言って疑うのが無駄だからやめろとは言わないと思う
疑いの心(不和)は滅するのではなく和されるべき
仏陀が言わなそうな言葉:〇〇は無駄である(空しい事ではあるかも知れない)
疑うの本質的な心は、疑義を正そうとする心であり、自分が暗に理解しなくてよいとしていたものに対して理解するべき事柄ではないかと自分自身を疑う心か
その事柄を理解しえるのではないかという希望もあるし、疑心について前向きな心だといえる
疑心とは
仏教の示す真理に対して思い定むることなく、まず疑ってかかる心である[3]。このような心をもつ限り、いかなる教えも自心は受け付けることはない
とのこと、だからと言って疑心を滅するというより和するが適当だと思う
疑心もだけど、汚れた心、悪い心というのを敵対的に考えさせられがちに思う
疑心とか偏った心・汚れた心・悪い心は、和される運命にあって、そのような前向きな流れだと考えたら 敵対的な心ではなく、和される運命に期待するような、どちらかというと和やかな心でいられるのではないか
仏教的に
悪人にも善の心があるので、悪人という言葉には矛盾がある
善人にも悪の心があるので、善人という言葉にも矛盾がある
だれにでも・どんな物事にも悪性(悪の心)と良性(善の心)どちらもある
陰陽の関係のように
だから物事を壊す(悪者を殺す)事は基本的に推奨されない、和されるという流れを信じているなら、あえて自ら暴力を振るったりしないはず(なるようになる(不和は自ずと和されるものだ)精神で)
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