20240924
欲(感情)に流されない・欲(感情)を抑える・欲(感情)にかつ
そもそもこの言葉(悪の存在を見いだす事)は矛盾してると思う
生き物は流れる感情(心)の存在として
人は感情(心・欲)の流れに流されて当然だと思う
このような欲(感情)を敵視した考え(その立場)は暴力的といえる
偏ったもの(感情・欲)を殺せという話だと思う(仏陀は言わないと思う)
「欲(感情)は本質的に暴力的存在だ」などという分別・決めつけがあると思う
あらゆる決めつけ(分別心に基づく)の立場に対して仏陀は決めつけない立場ではないかと思う
あらゆる物事に欲(悪・偏り)の性質(方向性)が見いだしうる(仏陀はこんな立場ではないかと思う)
見解(を見いだす)とは物事の方向性(善悪)を見いだす事だといえる
仏教において絶対的な方向性とは、絶対的な法(世界の法則)にしかないので
あらゆる人間の見解は矛盾があり、摩擦を起こしうる(暴力性がある)と考えられる
例えば、感情を制する(感情の流れを殺す)という意味で、瞑想修行にも暴力性があると思う
これに関して仏陀の瞑想(座する)という事には暴力性がないのではと思う
そもそも修行(瞑想・座禅)を必要と考えるその見解に偏り(暴力性)があると思う(邪の偏った心、その邪見の性質が人にはある)
偏見(邪見・分別)によって本来分けきれないものを分ける事になる
悪性・善性はあらゆる物事に見いだせて、これは悪これは善と本質的に分けきれない(本質的に分けきれないものを分けるのは矛盾・非情さがある)
修行においての「感情に流されてはいけない」という考え(見解)は、一つの調和への道(その考えによって見出せる調和へ道)と考えられるが、それは絶対的な道とは言い切れず、暴力性(見解の偏り)は見いだしうる(そもそも見・観・心には偏り(邪見)の性質があると考えられるから)
あらゆる物事が本質的に和を臨んでいる
流転は和(調和)に向かうものだと考えられる
あらゆる見解(分別)に暴力性がある
暴力性は調和を乱す性質だといえる
しかしその事柄が悪だとは言い切れない
調和の道において「〇〇を殺す」という観念は必要無いと思う
反対に修羅道にはそのような観念があるものだろうと考えられる
例えば「仏陀は真理に到達した」とか「仏陀は真理を語っている」
という前提で何かを語るというのは暴力的といえるのではないか
生き物は流れる感情(心)の存在なので
人は感情(心)の流れに流されて当然だと思う
「自身の感情の流れを攻撃して打ち勝つのが仏道(仏道において感情の流れに流されてはいけない)」
と、テーラワーダ仏教のスマサナーラさんが言っていました
違うと思う
人が何をするにも(修行も)自己破壊の性質があると思う
仏教的に感情が暴力に繋がるからといって、瞑想で感情(の流れ)を殺すことも暴力(自己破壊)ではないかと思う
偏ったもの(感情)を殺せという話だと思う(仏陀は言わないと思う)
「自身の感情の流れを攻撃して打ち勝つのが仏道(仏道において感情の流れに流されてはいけない)」
と、テーラワーダ仏教のスマサナーラさんが言っていた
「感情は本質的に暴力的存在だ」などという決めつけがあると思う
そうとも言い切れないと思うし、
あらゆる決めつけに対して仏陀は決めつけない方の立場ではないかという風に言いたい
見解(を見いだす)とは物事の方向性(善悪)を見いだす事だといえる
仏教において絶対的な方向性とは、絶対的な法(世界の法則)にしかないので
あらゆる人間の見解は矛盾があり、摩擦を起こしうる(暴力性がある)と考えられる
例えば、感情を制する(感情の流れを殺す)という意味で、瞑想修行にも暴力性があると思う
これに関して仏陀の瞑想(座する)という事には暴力性がないのではと思う
そもそも修行(瞑想・座禅)を必要と考えるその見解に偏り(暴力性)があると思う(邪の偏った心、その邪見の性質が人にはある)
法とは流動的な存在であって、物事(本質的に法の存在)への固定的な見解(分別)は、法に基づくあらゆる物事とって非情な事だと言える
(流動的な事柄に、非流動的な心構えをとることになり摩擦が生じうるから)
法を絶対の流れ(物事の流転)と考えたときに
あらゆる物事が本質的に和を臨んでいる
流転は和(調和)に向かうものだと考えられる
あらゆる見解(分別)に暴力性がある
暴力性は調和を乱す性質だといえる
しかしその事柄が悪だとは言い切れない
法が絶対の流動的な存在なら、非流動的な(摩擦を起こしうる)性質を暴力性だと言える
そしてこの考えを法に基づく正義だと言える
調和の道において「〇〇を殺す」という観念は必要無いと思う
反対に修羅道にはそのような観念があるものだろうと考えられる
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