波動として考える①
自身を波動である観の存在として考える
常識・観念が偏っている可能性があるから
常識を疑え(自身の常識的な観念を疑え)という
「念」がその人の常識・思い込み・観念
「念」が偏っているのは、それを作る「観」が偏っているから
本質的な問題は観にある
観があり それに拠るもの 観念か
観(少なからず歪んでいる)があり、そのうえで観念(分別・絶対視・妄想という歪み・偏り)がある
プロタゴラス「人間は万物の尺度である」基準あり(個人がはかることによる絶対性がある)
すべての人に共通する普遍的・絶対的な判断の基準は存在しないという考えである。
人間は尺度としてはかる存在である以前に「観」(観じたり観じなかったりする存在)だと思う、(基準なし・絶対的ではない)
観ずるということは観念を生じさせるという事で、観じないということは観念を生じさせない
観念とは観ずることによる念(念の変化、それで物事をはかる・価値観)
多くの哲学は観による歪みの上で観念という歪みを扱っているように思う
人間として生きるという事は観ずるという事であり、観とその対象の相互作用で観念ができる
観念とは観と外界との相対的なもの、観も自然同士の相対的な自然
観と観念で対比してみると、観念は不自然で自然という絶対性から離れている
観念は観を否定する性質がある
観は波動的な存在で常に変化している。
座禅などで人の観波動を鎮めた状態を止観・サマーディー・定・三昧という
観は相対的な波動であって常に変化する、観の波動を鎮めることは相対の世界から離れるという事
波動として考えるという事の本義とは
動物を超えた物事のとらえ方考え方で生命としての問題を科学的に解明すること?
自身を歪んだ観によるものと知れば、あらゆる矛盾の解消につながる
人間を超越する
観を拡張する
より正しく考える、より正しく観を観念に変える
鎮魂で 観鎮まって 朕になる
観とは人間の本質的な心、観は何をしたいのか(人間は何をしたいのか)
観が物事の偏り具合をはかる、その偏りを和する
慈悲心・和の心は偏りを和する心
観がないような、反応するだけのバイオロボット的な人もいるのか?
絶対的な観という絶対的な目・ホルスの目・第三の目?
自身が観の存在であると知らない人は、自身の観によって世界のすべてを歪ませている事に気づけない
自身が観の存在であると知り、観という自身に疑念をもつ事で自身の観を絶対的とみなしていた根本的な偏りを知る
観という自身に疑念をもつ事は、自身の観を絶対的とみなしていた根本的な偏りを知る事につながる
観を疑う、より本質的に深く疑う、本質的な偏りを知るには
外界との相互作用による自分自身の機微・趣き・情緒(精神的な心の動き)という偏り、これを感じ取る洞察力が求められる
波動として読み取る
自身を観として考える事は、自分自身を本質的にみる、波動として考えるという事
観の問題に向き合う、観の性質である波動について知る、
こうやって考えてみると世間で語られる観は、私が考えるものと違う
仏教における観とは観に気づく事 自身を観の存在として真理を観じること か
観[かん]定義について、辞書では目に映った印象。物事の様子・状態。とのこと
観念で「観」について考えることは、初めから「観」から離れている
上で定義されている観は、観によるイメージ(観念)であって、観とはそのイメージを念に対し観念として作る働きの存在だと思う
観を作る存在、人間の成分全部が観の存在
「観」は、目に映った印象。物事の様子・状態、そのようなイメージを念に対し観念としてつくる働きの存在だと思う
自身の念を絶対的だと考えてしまうのは、念(観念)に本質を見いだしているから
その見いだした絶対性は必ず偏っていてぶつかり合い壊れてしまう、仏教的に苦しい
生きるとはそういう事
観念上で自身に絶対性を見いだすから苦しい
観念として生きるから苦しい
観が、その念(観念)を形作っている事を知る・気づく
観ベースで考える、科学的に考える、
観念を超えた観として生きるということ
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