観と観念の歪みとその調和・高い多様性を持った観念・疑いの念・慧眼・不和に気づく・悟りへの道

みんな洞察している(洞察に基づくその人なりの観点・価値観・観念・信念・信仰、はかりがある)が、その深さ(はかりの正確さ・歪みのなさ)が違う。
例えば、疑いなくアニメで見る天国や地獄のイメージ(観念)を信じたり、死んでも同じ魂をもって生まれ変わる事のイメージ(観念)を信じる。
科学的に矛盾だらけでもこのようなイメージを信念としてしまう。
各々が自身のはかりに対し信仰をもっていて、それはその人なりに信じている物事の価値基準といえる。
人間とは基本的に自身のはかりやそれによる価値基準を疑いなく信じるもの。
深い洞察をもつ、洞察を深める事はその洞察の要素となる自身の観(観点)や、そこから生じる観念を疑う事、から始まるように思う。
深い洞察を得るということは、より仏教的で矛盾の少ない普遍的な観(正しくものを見る)とそれに基づく正しい観念(矛盾のない価値基準のはかり)を得るという事であり、それが優れた気づき・悟りにつながる。
自身の観を疑う(物事を正しく見れているか疑う)ということは、それによる観念を疑う(価値基準としているはかりに歪みがないか疑う)ということ。
疑念を持つ・疑念を抱くことは、自身の持つ観念に対し不和を感じる心であり、その心はより調和のとれた観によって不和を調和しようと模索する心(心のありよう・姿勢)である。
例えば、自身の観と観念(信じ込んでいたもの)を疑う、仏教の観(四念処観)について学び、より普遍的な観を自身の中に形成することで、観に対する念による観念も形を変える。
洞察を深める
宗教など問わず様々な観点を学び、より中正的・普遍的な観点を持ち、これが念として落とし込まれて観念となるが、その念として落とし込む力が思いとどめる力であり、これは念の高さ(念の力)である。
念の高さが優れるなら、観による多様性をより多く・広く思念として思いとどめ、それによる多様性の高い観念を創出する
そして、その多様性の高い仏教的観念が、優れた気づき・悟りにつながる。
より小さな不和を感じ取ることのできる念能力を慧眼(審美眼)といい、それは優れた念の高さを基礎とした仏教的な優れた観念によって外界をとらえ、そこに不和・偏りを感じ取る能力であり、これが優れた気づき・悟りをもたらす。
智慧とは念における物事の不和を智る(しる)ことと、それによる物事を分別する上で必要とされる知恵・知識であり、その智をもって理法に気づくということにつながる、智慧とは優れた智による慧ということ。智慧は慧眼によるもの。
慧眼は才能かもしれないが、べつだん生命としての優劣指標にはならない。


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