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【前編】出来損ないだった僕が、一生をかけて、叶えたい夢。


こんにちは。やまだかいとです。
HR業界で営業マネージャーをしながら、映画、料理、サウナに明け暮れている28歳です。


今日は、『僕が一生をかけて叶えたい夢』についてです。
努力ができず、何も続かない、出来損ないだった僕が、夢を持つまでの半生をつらつらと書くことで、どこかの誰かに勇気を与えられたら。と思うので、2回に分けてみようと思います。


1.転勤族から生まれた性格

新潟県で生まれた僕ですが、家族は4人家族。サラリーマンの父と専業主婦の母、介護士として働く妹がいます。父の仕事の関係上、異動が多く、いわゆる”転勤族”として新潟と東京を行ったり来たりしていました。

友達ができて、仲良くなったと思ったら別れが来る。
そして、また新しい環境でトモダチづくりにいそしむ。

「どうやら、あの子がクラスから人気らしい」
「この地域の方言は、こんな感じなのか」

こんなことを繰り返すウチに、いつしか”人の目を気にして生きる性格”になっていました。環境に溶け込むための、本能として備わったのだと思います。

よく言えば空気が読めて、トモダチが多い。
悪く言えば、八方美人の人見知りです。

おかげで、友達は広く浅くになり、誰とでも仲良くできますが親友と言える人がいない。そんな劣等感を感じていた時期もありました。


2.全てが中の下の、中学時代

そんな性格の僕なので、世渡り上手なわけです。それとなく、うまくやることが得意。中学からサッカー部に入り、高校までサッカー漬けの日々になるわけですが、そこでも、なんとなくうまくできるのではないかと思い、努力を怠ります。

リフティングやランニングのような基礎練習はもちろん嫌いで、キックの練習をしてうまくなればそれでいいんじゃないか。と自分に言い訳をして、がむしゃらにボールを蹴っていました。

弱小中学校ではレギュラーでしたが、県大会ではいつも一回戦負け。
もちろん僕の実力も、チームに貢献できません。そんな下手なサッカーでしたがみんなとなにかを目指して頑張ることは好きでした。

そこで、県内では文武両道を謳い、サッカー部もそこそこ有名な高校を目指し受験勉強に励みます。担任の先生からは「ギリギリ滑り込めるかどうか」と言われ続けながらも親に励まされながら、飲めないブラックコーヒーを相棒にし、それなりの努力をしました。

結果、合格。
合格したあの瞬間、親がすごく喜んでいた情景は、今でも覚えています。


3.努力から逃げた、高校時代

当時の僕は、サッカーを続けながら、バカな学校には行きたくない。がモチベーションだったので、目標なんてものはありませんでした。

ある種、志望校に合格することが”ゴール”になっていたわけです。
ゴールを失った世渡り上手は、ここで努力することを放棄します。

そこそこ強い高校サッカー部に、市外からも集まってきます。
中学時代にサボっていた基礎練習のツケがきて、周りのレベルに置いていかれてしまいました。ここで、できない自分を認めて、うまくなる努力ができればよいのですができるわけもありません。

そこそこ練習をしながら、部室で同期としゃべっているのが心地よく、どこかでこのままではダメなことに、気付きながらも逃げていたのだと思います。

そんな2軍に所属する僕でも、そこそこ真面目には練習に取り組んでいたので、疲れ果て勉強面でも、「ギリギリ滑り込んだ」自分を忘れ、勉強することを怠り、授業はうたたねを繰り返す日々。

ついに3年生になった僕は、インターハイ敗戦後、冬の高校サッカー選手権出場を目指すことなく夏に受験勉強を口実に、サッカー部を引退します。

しかし、サッカーも勉強も中途半端。なにも努力してこなかった頭の悪い僕が、短期間で成績が上がることもなく大学受験に失敗します。いわゆる”微差は大差”を感じ、自分の過去を悔やみ、絶望しました。


Fラン大学一校しか合格しなかった僕は、”浪人”の選択を取りました。
もちろん、なにも努力、継続できてこなかった僕なので、親や周りの友達から「やめといたほうがいいんじゃない?」と、指摘をもらいました。今思えば、一種の優しさですね。

けれど、ここで進学の選択をとったら、自分の人生はこのままだ。
そんな漠然とした焦りと、期待を胸に、親に頼み込み、浪人をさせてもらうことになりました。


これが、後に、僕の人生の転機となります。


前編はここまで。次回、後編は


4.人生の転機、浪人生活
5.本当の自分との出会い、大学生活
6.心の中に生まれた、夢

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
ぜひ、後編も読んでいただけると、嬉しいです!

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