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映画「母性」を観てジャン・ヴァルジャンに思いを馳せる

ドラマ・映画好きなキャリアコンサルタント xyzです。

今回ご紹介するのは映画「母性」、原作は湊かなえさんの同名の小説です。

母は、いつまでも母に愛される娘であり続けることにこだわった。その娘は、母が自分を愛してくれないことに悩み傷つき、どうしたら母に愛されるのだろうかともがき続けた。
小説の紹介文には「圧倒的に新しい、「母と娘」を巡る物語」とあります。

ロードショー時(2022年12月)に一度観ていましたが、最近ほぼ一年振りに配信で観たことがきっかけでこの記事を書いてみました。

母性神話と親性

この映画、原作本が話題になり「母性」に関して様々な意見や「母性」の当事者とされる女性の抱える思いや生きづらさ、現代の育児事情に様々な意見が出ました。「そもそも女性には生まれつき母性が備わっているものなのだ」「母親は自分のことはさておき、子に尽くすべき」「母なら誰でも子を愛するもので母性愛は至上の愛である」とされる母性神話が疑問視され、さらに「子を慈しみ愛する習性は女性特有の本能ではなく、性別に関係なく親としての育児経験により育まれる心の発達や変容が【親性】である」という認識も広まっていったように感じました。

この【親性】を考えた時にわたしの心に浮かんだのがジャン・ヴァルジャンでした。そう、あの世界的な名作「レ・ミゼラブル」の主人公のジャン・ヴァルジャンです。

レ・ミゼラブル(Les Misérables)とは直訳すると「惨めな人々」。
波乱万丈の19世紀のフランスが舞台の超長編作品です。

ミュージカルや映画になった作品なので、大筋の物語はご存知な方も多いのではないでしょうか。わたしは、子供の頃「ああ無情」という本を読んだのがこの物語との最初の出会いでしたが、「ああ無情」は完訳本ではなく翻案(既存の作品を原案・原作として新たに別の作品として作り変えること)……完訳本は大作すぎて、わたしは読み進めるのに疲れ途中でギブアップしてしまいましたが、鹿島茂さんの「レ・ミゼラブル 百六景」は読みました。物語の時代背景や世界観を理解する助けになるような、興味深いたくさんのトリヴィアがちりばめられています。

ジャン・ヴァルジャンは、幼い甥たちの為にたったひとつのパンを盗んだ罪で計19年服役(残した家族が心配で途中脱獄を何度も試み刑期が伸びた…)し、仮釈放の身で教会から銀の食器を盗み(恩を仇で返す行為!)再び捕えられます。しかしミリエル司教は「盗まれていない、これは私が彼にあげたものだ」と裏切ったジャン・ヴァルジャンを庇っただけでなく、さらに大切にしていた銀の燭台二つまで彼に渡してこう言います。

「この銀器を役立てて、誠実な人間になると私に約束してください。あなたはもう善の味方です。私はあなたの魂を買ってそれを神に捧げます」

鹿島茂 「レ・ミゼラブル百六景」より

極度の人間不信に陥り、心の荒みきっていたジャン・ヴァルジャンは、初めて自分を人間扱いしてくれた、そして罪を赦してくれたこの司教の慈愛にふれて茫然自失した……まるで雷に打たれたような衝撃を受けたのだと思います。人の心を取り戻し、司教の温情に報いるべく真に生まれ変わろうと努めるジャン・ヴァルジャン。この出来事がジャン・ヴァルジャンの心の支えとなり、その後生涯を通じて善き人としてふるまうきっかけとなるのです。

率先して愛を与える人

「レ・ミゼラブル」の作者ユゴーは「人生最大の幸福は愛されていると確信することだ」と名言を残しています。

ジャン・ヴァルジャンはその不幸な生い立ちから愛(される経験)を知らずに育ちました。ゆえに、人に愛を与える(愛する)ことも知らなかった……しかし、ミリエル司教から初めて愛を受け取ったジャン・ヴァルジャンは、受けた愛を、愛を受け取ったことがない惨めな人々(レ・ミゼラブル)に与えることを人生の使命とします。恩送り(pay it forward)ですね。

レ・ミゼラブルでは「愛というものは貰った分だけしか人に与えられないものである」と語られています。改心し更生したジャン・ヴァルジャンは、見返りを求めずに与える善意の人として描かれます。ファンチーヌやコゼット、その他愛されない惨めな人々(レ・ミゼラブル)には、ジャン・ヴァルジャンのような無償の愛を与えてくれる最初の人が必要で、その存在が愛されなかった(愛された実感を持てない)人の不幸の連鎖を断ち切ってくれるのです。この、最初に率先して無償の愛を与える人……それこそが親が子を庇護し慈しみ育てる姿に重なりました。そう【親性】です。

わたしなりの解釈ですが、親性とは「(保護者の)性別を問わず、子に率先して無償の愛を与える人であり、両者の間に生物学的血縁のあるなしも問わず、無条件の愛を示すことができる」存在ではないかと。そう、ミリエル司教やジャン・ヴァルジャンのような。
子を産む性(女)ではなくても、生物学的に親(父、母)ではない他人であったとしても、自分以外の人に無償の愛、無条件の愛を与えられる人が親たる者(parenthood)ではないでしょうか。「親たる者」になるにはある種の覚悟余裕が必要ですが、別に覚悟や余裕がなくても子を産むことはできます。生物学的には子を産んだ親になれたとしても「親たる者」になれない人もいる一方で、結婚もせず、子を産む性でもなく、自分の血を分けた子も持たないジャン・ヴァルジャンのような人でも「親たる者」になれる。【親性】とはそういうものではないでしょうか。反対に、実親からの愛情に恵まれなかった子にも「親たる者」との幸運な出会いがあれば、愛(される経験)を知って育つことができる、と。
【親性】とは育児当事者を個人(育児をメインで担う親)に限定するのではなく、社会(血縁以外の人、協力者、地域やコミュニティ)で子を見守り育てる共同養育(Coparenting)の観点からも、今皆に必要とされているものだと思います。

愛されている実感がほしい!

映画「母性」に話を戻します。
母は娘時代と変わらず与えられる愛を求め続け、自分の娘へ愛を与えることよりも母から自分が愛されることに執着しました。娘を立派に育てて母に褒められたい……「良い子に育てているわね」「良い母親としてがんばっているわね」母から、そして世間から賞賛と労いの言葉をもらいたいように見えました。

「愛は貰った分だけしか人に与えられないもの」というユゴーの言説から発展して考えてみると、母が娘を愛せなかったのは、母が自分の母から十分に愛を与えられなかったから、という仮説も立てられます。しかし、小説によれば母は手記の中で「母こそ私の太陽」「母の愛情を、私がこの世の誰よりも愛されていることを、確認」していた娘であり、そんな娘に母は「私が予測していたものか、それ以上」の言葉や態度で返してくれた愛情深い母だったとありました。娘時代の母の目に映る実母は、いつも上品で美しく慈愛に満ちた姿。でも、いつも母から愛されていると確認したがった娘。受容されたという感覚を持てずにいたとすれば愛着障害の不安型かもしれません。

若い母だった彼女は、子を育てるにはいつまでも娘気分が抜けない精神的な未熟さもあったようですし、実母の没後はショックで精神が不安定になり、夫の助けや支えもなく孤独を抱えて生きていたのでしょう。時間の余裕、金銭の余裕、心の余裕、身体の余裕……夫家族と同居してからはまったく余裕のない生活に身を置いていました。せめて夫が彼女の理解者だったら……状況は少しはマシになったはずです。娘につらくあたったのは、彼女に娘を愛する余裕がなかったことも一因だと思うと余計に不憫に思えます。

(わたしは)いついかなる時も、母が望むような子になろうと努力していたのに、どうして、娘は私の気持ちを汲み取ろうとしないのだろう。

湊かなえ著「母性」

自分の母を神格化し母のようになりたいと願った母は、自分の娘が娘時代の自分ほど親に対して従順ではないことにも苛立っていたようでした。
子といえども自分とは別個の人間なのに……。

わたしはお母さんとは違う!

一方、娘は物心ついてからずっと母親の愛情を一心に求めてきました。幼年期の彼女はいつも母親の顔色を窺って気を遣っている、とても聞き分けのいい子のように見えました。成長するにつれ気丈さも出てきて、正義感から目上にも臆せず辛辣に物を言うタイプに変わりましたが、母に愛されたいという思いはずっと持っていました。愛されたくて、娘なりに母に尽くしましたが、母には娘のすることが全て気に入らず……どんなに彼女が努力しても母から拒絶され生意気だと叱られ甘えようとしても疎まれます。後にその理由を知った娘は生きることに絶望して(ネタばれ回避)……時が流れやがて年頃になり、学生時代からずっと彼女のよき理解者だった同級生の享と結婚し妊娠します。妊娠をきっかけに、母になることや母性について考えたり、これまでの自分の母との関係を回想する娘。

「わたしは子どもに、わたしが母に望んでいたことをしてやりたい。愛して、愛して、愛して、わたしのすべてを捧げるつもりだ」

湊かなえ著「母性」

母の手記にしても娘の回想にしても、それぞれの記憶と主観を通して語られる「真実」なので、二人の言い分はすれ違い食い違っている点が多々見受けられます。母と娘の間の分かり合えなさが如実に表れています……切ない。

彼女は母からの愛は得られなかったけれども、彼女を理解し受容してくれる幼馴染のおかげで、愛を自分の子に与えたいと思うようになったのですね。
愛を求める人から自ら率先して愛を与える人になる、と彼女自身が立ち位置を変えたのです。
「愛して、愛して、愛して、わたしのすべてを捧げるつもり」と言いながらも「だけど『愛能う限り』とは決して口にしない」「子供には鬱陶しがられるかも」という冷静さもあります。(確かにそれはそれでちょっと重い……無理はしないでほしいと心配になってしまう><)
自分の母と同じ轍は踏まない、わたしはああはならない、わたしは自分から与える人になる……彼女の意地「母になる」決意を感じました。

バトンを繋ぐ

湊さんは小説の最後に、娘の言葉として「愛を求めようとするのが娘であり、自分が求めたものを我が子に捧げたいと思う気持ちが、母性なのではないだろうか。」と書いています。さらにインタビューで「女性には母と娘の2種類いるのではないか」と感じたことがキッカケで本作を執筆したと語っていました。言い換えれば、人には与える人与えられる人の2種類がいるのではないかとわたしは思いました。

母にならなくても、母性に目覚める人もいる。
母になっても、母性が育たない人もいる。

愛されず育っても、人を愛せる人もいる。
愛されて育っても、人を愛せない人もいる。

与えられたから、同じように誰かに与えられる人もいる。
与えられたけれど、誰かに与える余裕のない人もいる。
与えられたことがなくても、誰かに与えることで得る幸せを知る人もいる。

人それぞれ環境も違えば事情も生い立ちも気質も違います。自分以外の誰かを受容するには余裕が必要です。母性とは女性だけに備わったものという偏見が、母親たちに子育てへの不安や弱音を吐くことを躊躇させ、孤立し苦しむことになっていないでしょうか。現代の女性、いや男性にも、自分以外の他人を受容する余裕があるでしょうか?

母性というと女性だけに限定されそうなので、【親性】と読みかえてみます。男女関係なく、自分が求めたものを人に捧げられるかどうか自分を含め人を受容する余裕があるか、それが親たる者かどうかの分かれ目ではないか、とわたしは思います。(捧げられるのが素晴らしく捧げられないのがダメだとか、余裕があるのが良くて余裕がないのはダメだとか言っているわけではありません)

ジャン・ヴァルジャンがたくさんの人に率先して愛を与え、血縁関係のないコゼットを愛情込めて立派に育てたようなことが【親性】の発露ではないかと思うのです。ジャン•ヴァルジャンが魂を成長させ利他に生きたように、誰もが魂を成長させる機会は人生のどこかの時期であるのではないでしょうか。

命をつなぐ、命のバトンという言葉が小説の中に何度も出てきました。
それは恩送りにも似ているなと思いました。自分が受け取ったものを次の人に受け渡していく……恩のバトンリレー。返さなければ!と思うと、同じようにしなければ、とか恩に報いなければ……とプレッシャーに感じるかもしれないけれど、受けたものを自分なりにできる限り(それこそ能うかぎり)誰かのために還元する、それで十分なのではないかと。

ジャン・ヴァルジャンはミリエル司教との出会いが人生を大きく変える転機となり、ミリエル司教から受け取った信仰のバトンをかつての自分のように社会的に恵まれない人々(惨めな人々=レ・ミゼラブル)へと渡し、繋いでいきました。

子がいても、子がいなくても、みんなで育て、助け、与え合い、つながっていく。子育ては親だけが担うものではないし、皆が【親性】を発揮できる世界は、親にとっても子にとっても、かつては子であった誰にとっても、あたたかく優しい世界になるのではないでしょうか。

誰もがジャン・ヴァルジャンになれるし、ジャン・ヴァルジャンに出会えるのです!わたしもこれ迄、両親やたくさんの人々に与えられ育てられ支えられ愛されて生きてきて、たくさんの心のバトンを預かりました。わたしも誰かの「ジャン・ヴァルジャン」となって、バトンを次の人たちに繋いでいきたいと改めて思いました。

最後までお読みいただきありがとうございました^^

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