密やかで美しい短編集。『約束された移動』小川洋子
誰かの読んだ本を追いかけることを「古風な愛」と言ったのは、氷室冴子さんの『さようならアルルカン』の登場人物でした。主人公は、図書カードを頼りに、気になる彼女の読書遍歴をたどります。ジブリアニメの『耳をすませば』でも、図書館の本に挟まるカードから、自分と同じ本を読む存在を知って、淡い恋の物語が始まりました。
こういう図書カードエピソードは、その昔、学校の図書館では図書委員がいちいち貸出カードに記入していたからこそ。今では学校の図書館もバーコードに変わり、ピッで終わって楽だし、守秘義務も守られる代わりに、出会いもありません。
そんなわけで、小川洋子さんが準備した場所は、なんとホテルのスイートルーム。ハリウッド俳優のBは、いつも泊まるホテルのロイヤルスイートルームの本棚から、毎回1冊づつ抜き取っていきます。客室係の「私」は、本棚の1000冊を知り尽くしていて、どの本をBが抜き取ったかわかるのです。
客室係にとって、備品の持ち去りはホテルへの報告義務があります。でも、「私」はそれをせず、Bと自分だけの秘密におさめます。本の持ち去りをきっかけに、「私」はBの出演する映画を見るようになり、彼の抜き取った本を読み、次にどの本がなくなるか推理します。
Bと「私」だけの読書の共有。Bと「私」は言葉を交わすこともありませんが、「私」のBへの想いは密やかで、情熱的でロマンチックです。Bの人気がどうなろうとも、彼の私生活がどんなにゴシップにまみれても、「私」は彼が抜き取った本だけを頼りに、彼の本質を見てゆるぎません。
社会の片隅で、単調なリズムで繰り返される毎日をきちんとこなし、他人を傷つけることを嫌うやさしい人が、ただ1つだけとっておきの「秘密」を持つ。それは、とてもとても人間らしくて、「普通」のこと。小川さんらしいムダのない文章と、読後の余韻がすばらしいです。
この『約束された移動』は短編集で、どの作品にも「普通」の人たちが出てきます。彼ら、彼女らのちょっとした秘密やこだわりは、私が若い頃だったら、かなり変わったものに見えたはず。でも、人生折り返し地点を過ぎた今は、どんな人でも独特の癖や不器用さがあるし、驚くような過去や秘密があることを知っています。
小川さんの小説がやさしいのは、世間的にはどんなに変わって見える登場人物にも理解者がいることです。主人公と理解者(ときには動物)との心の通わせ方は、とても繊細でシンプルで、まさに小川洋子さんの文章の世界そのもの。乾いた心に染み込むような短編ばかりです。
どの作品も好きですが、表題の「約束された移動」と巻末の「巨人の接待」は、ぐっときて何度読み返してしまいます。小川洋子さんがいてくれる世界に生きる私は幸せです。次は何を読もうかな。
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