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沁み入るような静かな世界。『猫を抱いて象と泳ぐ』小川洋子


小川洋子さんの作品は、『博士の愛した数式』以来です。とてもすばらしい作品で、しかもちょうど私が広島で3年間過ごした後に読んだので、広島カープへの思い入れもあって、楽しく、そしてとてもステキな物語だなあと思って読みました。

今回は、何気なく目にした動画で、藤井聡太三冠(当時)が読んだチェスの本ということで読みました。まだ高校生だった藤井七段に自著の『猫を抱いて象と泳ぐ』を読みましたと言われて、びっくりして喜ぶ小川さんの表情がステキです。(記事は『朝日新聞』2020年1月3日に掲載


さて、この作品ですが、生まれつき無口で人と普通のコミュニケーションを取りにくい男の子、繊細過ぎて社会では生きづらそうな少年が主人公です。でも、彼には理解者がいます。家具職人の祖父と信心深い祖母、そして偶然知り合う元バス運転手の男性です。彼が少年にチェスを教えてくれるマスターになります。

しかも、その教え方は独特で、少年が自由に伸び伸び操れるように、ルールという形からではなく、勝つことをめざすゲームとしてではなく、「美しい棋譜を残す」「盤面の宇宙を楽しむコミュニケーションツール」として教えてくれました。

少年は毎日マスターとゲームをします。猫のポーンを抱いて、チェス盤の下にもぐって。それは少年独特のスタイルで、彼にはそれしかできなかったのです。

マスターが不幸な亡くなり方をすると、少年はホテルのチェスクラブの地下で行われるチェス人形を動かす仕事がめぐってきます。少年は、祖父が改良したマスターのチェス盤の下にもぐり、猫を抱いたチェス人形を動かして見えない誰かと対戦します。

最初のチェスの相手はチェス人形修理のスポンサーになった女性。とても強く、自分の確固たる実力を持った老婦人です。彼女はときどきやってきて、少年とチェスをします。そして、彼がどんな人にチェスを教わったのか理解し、少年を理解します。彼女も少年の数少ない理解者になりました。

あと一人、人形の中の少年を手助けする役割の少女が登場します。彼女は美しい文字で棋譜をつけ、少年が人形でできない動きをフォローします。彼女もまた少年の理解者になりました。ですが、ある晩の酔客の乱暴によって人形は壊され、少女は傷つけられ、少年と少女の穏やかな関係は終わりを告げなくてはなりませんでした。

少年は祖父に頼んで、チェス人形を修理するだけでなく、カバンに収納できるよう改良してもらいます。老婦人の導きによって少年は人形とともに、チェス愛好家の集まる山の上の老人ホームにたどり着きます。そこで昼間は雑用し、晩は人形として眠れない老人とチェスをするのです。

ここでの少年は、終のすみかとしての老人たちに安寧を与えることができました。本当なら、ここに最初から少年がいられたら、どんなによかったかしれないのですが。その老人ホームには、あるとき国際的に有名なチェスのマスターが慰問に訪れ、偶然、少年と対局します。それは、のちに伝説となります。

また、「さよなら」を告げられずに別れた少女からは、手紙が届くようになりました。一通、一通、チェスの符号をやりとりする中で、少年は少女の気持ちを理解し、返事を心待ちにするようになりました。

でも、彼のようなギフテッドは、チェスの神様が手元に置きたくなっても不思議はありません。物語の終わりはあまりにもあっけなくて、でも、とても静かで、「さすが小川洋子!」と唸らずにはいられませんでした。昨日の夕方読み終えましたが、余韻が今でも残っています。

小川洋子さんの物語は、その緻密で自然な構成と、流れるような自然な文章が独特の世界観を見せてくれます。若い時にこの物語を読んだら、才能ある少年の哀しい物語だと思ったかもしれません。

でも、人生折返し地点を過ぎた今では、神様から特殊な才能と稀有な人生を与えられたにも関わらず、多くの理解者を得て、自ら居るべき場所も得られた幸せな少年の物語だと思います。


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