見出し画像

家族のきずな

私はあまり親と仲がよくない。兄弟や親戚もいるが、どうにも疎遠(そえん)である。ここで、「仲がよくない」とか「疎遠」だとかいうのは、そうではなかった時期があったけれど今はそうなってしまったという意味ではなくて、どうも他の家族や物語に描かれる家族の典型をみているとそうではないらしいという意味でのそれである。

私は文字通りの個人主義的で自己中心的でエゴイスティックな子供だった。言い換えれば、視野が狭かったし、おそらく今でもそれほど広くはないだろう。なぜそうなったのかといえば、「死ぬときは人間は一人で死ぬのだ」ということを強く意識していたからである。すなわち、私が死ぬときは、私の親が死ぬのでもなければ私の兄弟の誰かが死ぬわけではない。私自身が私の死を引き受けなければならないということである(一人称の死)。それについて、例えば反出生主義のような立場から親を恨むようなことはないが(今更恨んでどうする?)、私が親兄弟や友人や恋人をいくら頼りにしたところで、結局死ぬときは頼りにならないではないか、一人で死ぬのではないかという思いが非常に強かった。それが私が心を他人に開けなくなった一因であったのかもしれない。

しかし、実際には死ぬときは一人かもしれなくても、生きている今この現在は個別に人間関係が成立している。映画「ゴッドファーザーII」では血縁を重んじるシチリアマフィアの様子が描かれるが、主人公のマイケルがベトナム戦争に行ったことに対して、他の兄弟が「(それは国家への忠誠を果たしたことになるかもしれないが)国家と血はつながっていないだろう!」と述べるシーンがある。すなわち、国家などという顔もわからない得体のしれない組織に忠誠を誓って命を危険に晒すよりも、血のつながった兄弟同士、ファミリー同士で命がけで協力していく方が遥かに重要であり、一種の美徳でもあるということである。

ただ、私のような視点からすると、なるほど血はつながっている関係というのは当然あるわけだが、血がつながっているから何なのか? 緊急時に輸血の相手が探しやすいぐらいのメリットしかないのではないか? といった感想も持ってしまうのが率直なところである(しかし、これは文字通りに受け取ってはいけないのだろう)。

私たち人間は一人一人皮膚で隔てられているし、動物だからお互いに離れて独立に地理的に自由に行動することができる。都市部に済む個人ならなおさら自由に、オンライン上ならもっと自由に匿名の海を泳ぐことができる。このような自由の獲得は一面、素晴らしいことだ。例えば、オンラインデートアプリ(マッチングアプリ)を利用して、近所のいろんな人と出会うことも不可能ではない。

一方、保守の人の一部は選択的夫婦別姓が家族の観念を変容させ破壊するのではないかと懸念しているが、そんなことよりもこうした都市化やマッチングアプリによる不倫のほうがよっぽど家族の破壊を招く誘因になっているのではないかと思うほどである。

このような個人に分割されて扱われがちな現代において、それでも他人と親密な関係を築くとはどういうことなのだろうか? もちろん同じことに対する深い興味関心からつながることもあるだろうし、同じゲームや同じコミュニティに深くハマることもあるだろう。一方で、オフラインでお互いの肌と肌との触れ合い(握手からハグまで)や同じ場所・同じ時間・同じ体験・同じ思い出を共有することから来るものもあるだろう。

ただ、それを二回や三回したところで強い愛着が湧くというものでも無いようではある。相手が自分に尽くしてくれている、他でもない自分を必要としてくれている、他の人より自分を優先してくれている、こうした状況が何年か続いて初めて、お互いの「親近感」のようなものが生まれてそこから長く継続的な関係を築こうとする動機づけが本格的に発達していくらしい。それを「きずな」と呼ぶこともできるのだろう。とはいえ、長年連れ添っても離婚する夫婦がいることも考えると「きずな」にはメンテナンスも必要ではあるらしい。いったいどのようなかたちで「きずな」を築き上げ、そしていったん出来上がった「きずな」をより豊かなかたちにしていけるのだろうか。私も暗中模索である。

(1,741字、2024.05.25)

#毎日note #毎日更新 #毎日投稿 #note #エッセイ #コラム #人生 #生き方 #日常 #言葉 #コミュニケーション #スキしてみて

この記事が参加している募集

#スキしてみて

526,955件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?