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概念でみえない化された唐突さ

上記の記事では、或る行為が能力的にあるいは物理的に可能であるとしても、それが人間関係のなかで正当なものであるとか「自然」「普通」なものと承認されるためには別の正当化が必要なのではないかというアイデアを提出した。別の言い方をすれば(つまり下記記事で考えるところの記号列に寄せた言い方に変換すれば)、或る行為を表す命題文を提出する際に、それが「自然」「普通」であるためにはそれを正当化する別の命題文が暗示的であれ必要であろうということである。すなわち、適切な量と種類の前提命題を相手に理解する機会があれば、やっとその行為を表す命題文が一定の正当性を持つものとして理解される可能性が生まれるのである。

一方、或る普遍的な概念の出現はこれらの推論をショートカットできる。なぜならば、概念はいったん出現して普及するとそれ以前のことを忘却させる性質を併せてもっているからである。例えば「人権」「権利」が代表的なものである。例えば我々が自分の私生活を覗(のぞ)かれたくない!と思ったとき、単に「私はのぞかれたくない!」と叫ぶこともできる。これだけでは、ただ自分の好き嫌いやこだわりの表明に過ぎない。もし仮にそれまで誰もがのぞいたりのぞかれたりするのがイヤであること、私生活を秘密にしたいことに共感のない文化においては、それは唐突な主張である。突然の主張であり、かつ、妙で変な主張である。言い換えれば、ワガママであるとか無いとか以前にそもそも唐突であり、理解も共感も不能なのである。

ところが、「私はのぞかれない権利がある!」と主張すると、それは単なる個人のこだわり以上の何かを指すことになる。それは「権利」「人権」という概念の意味を理解する以上そう取らざるを得ない。例えば「セクハラ」という概念が正確にいつから使われ始めたか、我々は忘れてしまっている(あるいは思い出す必要がない)が、それはハラスメントという概念の中身が人権の侵害という普遍的な概念に依拠しているからである。例えば電気や自動車、テレビや電話やインターネットやGPSなどと同じようにこうした概念はインフラとなっており、なおかつその起源を我々はなかなか実際に思い出すことはできない。なぜならばそれらは常識化し、インフラ化したからである。概念も同様なのである。なぜならば、概念には日付が書いてないから、すなわち製造日も賞味期限も書いていない(=無時間的)からである。

したがって、概念をうまく使うことによって我々「唐突」な行為をしがちな人はその「唐突」さを隠蔽することができる。なぜならば、慣れ親しんだ概念の枠内に位置づけてしまえば「唐突」な行為は唐突でなくなるからだ。例えば、急に趣味のボードゲームを始めたとか、急に飯や芋を食べなくなったとなると「なんで???」となるが、それが「神奈川県の風習」だからといえば納得は近づくかもしれない。「認知症防止」や「糖質制限」「ダイエット」といえばもっと納得しやすいかもしれない。これらは必ずしも推論を聞き手に強いることはないが、とりあえずのなるほど感を出すことができる。だから、我々は摩擦を回避するために、ときに唐突な行為とその隠蔽方法を合わせて用意しておく必要がある。

(1,326字、2024.03.25)

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