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行為の正当化課題、あるいは自分自身の行為の意味をわかっているか? making legitimacy

人間が何らかの行為をおこなうことは、その〝意味〟を知らなくてもできる。例えば誰かを殴り倒せば、それは殴る能力 capability があったことを事後的に証明する。一方、能力はそれを行使することを正当化 justify しない。何が正当な行為であり、何が正当ではないのか、我々は常識に訴えるようなかたちでそれらを了解している。我々だけでなく、動物ですら本番の狩りと遊びまたは練習の狩りとを区別するのと同様であるが、人間であり行為をなす能力もあるのに正当性の有無や是非を区別できない者もいる。したがって、行為を正当であると位置づける能力は他の能力とは独立に存在する。言い換えれば、行為を「物語」や推論のなかで他の命題と関係づける能力は、他の行為遂行能力から独立している。なお、この位置付けに失敗すると「言い訳ばかり」「屁理屈」「正当化」「自己弁護」と呼ばれてむしろ何も言わない・やらないよりも悪い結果を招く。

政治的なスケールで正当性 legitimacy を考えてみよう。なぜならば、その方がわかりやすいからであり、わかりやすいのは規模が大きくて内部の複雑さが目に見えやすいからである。例えば、歴史上の軍事独裁政権が長続きしなかったのはなぜか? という質問に或る哲学者(フランシス・フクヤマ)は「それは軍事独裁政権は正当性を調達できないからだ」と述べている。

正規軍のような高度な暴力は高度な組織化をともなうが、暴力装置はそれ自体で正当性を調達できない。なぜならば、暴力装置が反乱する大義名分があったとしても、なぜ暴力装置のトップが暴力装置のトップだっただけで大義名分を代表できるのかがわからないからである。トップの命令に納得抜きにしたがうのは部下だけだ。

このことから言えば、卓越した軍人であろうと技術官僚であろうと天才エンジニアであろうと、もちろん天皇陛下であろうとその正当性を他者から調達できなければ国家を築き上げ維持することはできない。なぜならば、誰かの人柄(カリスマ)やテクノロジーによる効率化は正当性とは独立だからだ。

この正当性を調達するゲームあるいは承認のゲームは、行政執行、議決などによって明文化された法(実定法)や裁判や判例、部族の冠婚葬祭のかたちをとってプレイされる。しかし、理解できない人には理解できない。なぜならば、必ずしも定量的でもなければ規則的でも効率的でも言語明示的でもないからである。例えば、数学物理系の人の一部は、それらを人類の不合理な慣習としてひどく怒り蔑(さげす)むこともある。

しかしながら、正当性にも構造があるため、それは分析可能である。例えば、誰が代表するのかの正当性と、どの勢力を主敵とみなすかの正当性とは異なる。また、一回合格すればそれでいいというものでもない。定年制や定期選挙があるのはそのためである。

選挙や株価の結果は或る意味重要ではない、というと言い過ぎかもしれないが、もっと重要な選別は選挙に出馬する手続きや会社上場の手続きでおこなわれているのであって、一見それを打ち破るような妙な人も現れるが、そのような候補者が我々の前に現れるということは手続きそのものが疑問視されている。言い換えれば、明るみに引き出され、本当に重要なものが何なのかが問われているのである。言い換えれば、既存の正当性の筋道、証明手続き、あるいは〝物語〟の再編成が予告されているのである。

さて、政治や世界史の大きな話は我々庶民には関係のない話かもしれないし、影響されることはあっても影響を及ぼせるものではないかもしれない。ただ、個人のレベルやミクロのレベルでも一定の物語の中に自分自身や自分の行為を組み込もうとする努力は、何かを達成する努力とは別に必要となる。だから、目標達成のための直接的努力だけでなく、あらかじめそれが値打ちあるものとして承認を受けるカラクリをも用意しておければ最強だろう。

(1,605字、2024.05.19)

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