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不可能を可能に転換させるのは概念構成である

概念は構造を持つ。なぜならば、構造とは不可逆性であり、概念は一度構成されるとそれを除去したり、概念が無かった時点での自分自身のあり方を想像したりするのが困難になるという不可逆性を持つからである。言い換えれば、概念が創造されるということは、時間的なこの世界の中に時間超越的なモノが記号列を使って構成されるということだからである。さらに換言すると、概念がつくられるということは、時間性という特徴づけと無時間性という特徴づけが対立させられる、すなわち構造がつくられることだからである。

例えば、りんごという事物がただそこにあるという状態はただ個別のりんごがあるだけである。りんごは木に成り、食べられたり腐ったりしてりんごではなくなっていく。これらは時間的なプロセスであり、そこに無時間性という特徴はどこにもない。しかしひとたび「りんご」という概念Aが成立してしまうと、その概念が生まれる以前のりんごたち a1, a2, a3, … も、その概念がもし滅びてしまった(例えば全人類が滅びればそうなるだろう)としても、その後に出てくるりんごたちもすべてを時間超越的に包括して「りんご」と呼ぶことができるようになるのである。そのような概念はこの世のどこにも触ったりかじったりするものとして存在していないが、しかし「りんご」という記号列を介して我々はそのような概念を創造するのである。

なお、りんご概念の運用について考えても、我々はりんご概念がいつどこで誰が想像したのか、その製造年月日についても使用期限についてもほとんど気にすることが無く、忘れたままりんご概念をプレイできる・ツールとして扱えるということも特徴的である。

ところで、不可逆性という概念も、実際は額面通りに取ると(すなわちその純粋あるいは最高の意味においてみると)ギャップを抱えてしまっている。なぜならば、「不可能」という論理学的な特徴づけはもちろん様相に関わるが、これが現実の事物の特徴づけになり得るのは奇妙だからである。というのも、現実の世界に存在するものはすべて時間的な存在だからだ。言い換えれば、この経験世界のあらゆる存在は現に崩壊してきたし、これから崩壊し得るという性質を備えているからである。したがって、我々は我々が経験する現実の世界そのものからは100パーセント文字通りの「不可能」概念を汲んでくることはできないのである。したがって、「不可逆性の成立によって構造が発生した」といったとしても、その構造がいずれ崩壊する以上、長期的にみれば実際は可逆的なのである。それでも十分な期間が経過したり、特殊な特定の条件が揃って構造が破壊されない限りは後戻りする見込みが無いことを指して我々はそれを「不可逆的な対立あるいは構造が形成された」と呼ぶことができるのである。したがって、不可逆性を持つことは従来の環境からの影響が限定されることでもあり、構造が自立的になることでもあるが、それによって構造がなぜ成立したのかという条件が隠蔽されることなのだ。

この隠蔽によって構造は「たまたま成立した」という別の様相空間(可能性の空間)を獲得する。具体的に言えば、例えば生まれた子供にたまたま物心=自己意識が生まれたとすると、それは環境から一定程度切り離された内面をその子供が獲得したことを意味するが、そのような自立が獲得された途端、周囲の環境もその子供にとって「たまたま」のものとなる。なぜならば、子供の物心がついた客観的原因は周囲の環境のからの影響や少年の肉体の成長といった外的要因によって成立した必然的なものであるにもかかわらず、いったん物心という自立性が生まれてしまうと、「この物心がよりにもよってどうしてこの環境に取り巻かれたこの私に生じたのだろうか?」という疑問を抱くことも可能になってしまうからである。すなわち、ここにおいては不可能が可能になっている。それはどうしてかといえば、物心、意識、内面の成立というのはそれらの成立経緯そのものを隠蔽する性質を持っているからである。

したがって、例えば「親ガチャ」のような概念も可能になるのである。なぜならば、自分の意識や内面が自立しているという認識が成立していればこそ、それが別の家庭に発声した可能性を想定することも可能になるからである。

なお、何かが構造を持つことと、それが歴史、言い換えれば生成消滅を持つこととは衝突する。もし、衝突しないようにみえたとしたら、それは時間の空間化という操作を挟んでいるからだろう。時間を直線としてイメージすれば、構造や概念やルールにも当然時効やタイムリミットを設けることができる。本稿で扱ったのはタイムリミットがついていない素朴な概念であって、タイムリミットを外挿(がいそう)した概念について分析するとなれば、もっと高度な分析が必要になることが予想される。

本筋に戻ると、概念が成立し、構造が出現し、概念が自立的なものとして我々に現れるということは、時間の中に無時間的=時間超越的なものが単に現れるだけではなく、それが遡行的(そこうてき)に様相の空間を変更し拡張するといったことも可能にするのだ。なぜならば、概念とは自由を求めるものであり、概念化とは概念に対して環境をマスクすることで概念を解放し自由に応用できるようにすることだからだ。例えば、意識や内面、自由意志やいわゆる「自己原因 causa sui」が自立したものとして、自分自身を環境から切断されたものとして取り扱えるようになるメカニズムの一端にもこれがつながっていると考えている。

(2,281字、2024.04.24)

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