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「役に立つこと」の難しさ

「人の役に立ちたい」
「人に必要とされたい」
「人に感謝されたい」

小学校とか、中学校とか、物心ついた時には既にそう思っていた。

どれも普通の人が、普通に感じるような、普遍的な欲に見える。

だけど、私はしっかりと親子問題を拗らせたアダルトチルドレンなので、この気持ちの裏にはとっても利己的な欲が隠れている。

そんな自分に気づきたくなくて、自分をいい人間だと思いたかった。

だから「役に立ちたい」気持ち、「必要とされたい」気持ち、「感謝されたい」気持ちを、誰もが持つ普遍的な欲なんだと、「持っていても良い欲」なんだと、なんなら「人間として正しいこと」なんだと思い込んだ。

そして勘違いした私は、すくすくと医療従事者になることを選んだ。
とても分かりやすく必要とされていて、役に立てそうで、感謝されそうな仕事だからだ。

病院は一般企業とは異なるけれど、当たり前だがボランティアや完全な税金や国庫で成り立つわけではない。

どうやったらより多くの収益が出るか、どうやったら保険診療の高い点数や加算が取れるか、そのためにはどうしたらいいか、なんて施策が日々走っている。

患者さんはいつまでも入院していられるわけじゃないし、いつまでも手厚いケアを受けられるわけじゃない。病院が、ではなく、診療報酬がそういう仕組みになっている。

看護師は白衣の天使だとか、医療従事者は身を粉にして働く人たちだって思われてるけど、働いてるのは普通の人間なので、欲もあるし怠ける時もあるし、人のことを考える余裕がない時だって、ある。

病院の収益を考えたら「その人のためじゃないサービス」を提供することだって、ある。

自分のしていることを何にも真剣に考えていない人間だって、中にはいる。

まぁ、人のことはどうでもいいけれど、自分のことで「タチが悪い」と思うのはそんな環境の中で、それでも「自分は良いことをしている人間だ」と思い込んでいたことだ。

人は、そんなに簡単じゃない。


医療は、病気や怪我をした時はほとんどの人が必要とするサービスではある。

だけど、医療サービスを受けたからって嬉しくなるわけでもない。
だから、医療サービスを提供したから役に立てる人間になれるわけでもないし、感謝してもらえるような人間になれるわけでもない。

人には心があって、好き嫌いがあって、価値観があって、大切にしているものがあって、されたくないこともあって、されたいこともある。

とても当たり前のことなのに、全然、私は配慮も気遣いもできてなかった。
できてなかったくせに、医療従事者だからって「役に立てる人間だ」と思い込んでいた。

自分のしていること、提供することに真剣に向かい合わず。
受け手のことを考えず、感じずにいて、自分のしていることをブラッシュアップするわけでもなく。

100人いれば100通りの心があって、同じことで喜ぶわけがなくて、同じ人でも人生のタイミングや、誰と関わるかによって「嬉しいこと」は違うのに、全然、考えられていなかった。

どうして、考えられなかったのか。考えようとできなかったのか。


それは「親子問題」を抱えているから。
アダルトチルドレンだから。


自分を大切にしてもらえた記憶がなくて、自分の心も、好き嫌いも、価値観も、大切にしているものも、全部、蔑ろにされてきたから。

そうして扱われる自分を許して、そうして扱われることに戸惑ったり怒りや悲しみを覚える自分を隠してしまったから。

大切な自分の心より、理不尽な「普通」や利己的な「親の都合」や「親の気持ち」を優先され、それを受け入れ、それが「愛情」であると思い込んでしまっていた、今も心のどこかは思い込んでしまっている、から。

目の前にいる大切にしたい人の気持ちより、「役に立っているはずの自分」を見てしまう。
目の前にいる大切にしたい人の状況より、「感謝されるはずの自分」を見てしまう。
目の前にいる大切にしたい人の思いより、「必要とされるはずの自分」を見てしまう。

「正しい」と言われることをしていると、「正しい」と思い込んでいることをしていると、目の前の現実がとにかく歪んでしまう。

そうして調子に乗っていると、容赦無く「役に立たない」「感謝されない」「必要とされない」自分が現実に現れる。

それも全て自分が望んだことで、それも全て自分が引き寄せたことで。

現実を受け止めないと、本当に進みたい方向には、進むべき方向には、進めない。


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