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ユング、マンダラ、共時性:ユングの論文「共時性:非因果的連関の原理」を読むーーユングとパウリの共著 『自然現象と心の構造』より

深層心理学で知られるカール・グスタフ・ユングと、「パウリの排他律」で知られる物理学者ヴォルフガング・パウリとの共著『自然現象と心の構造』を読む。

パウリの手による論文「元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響」については下記の記事で論じたので、今回はユングの手による「共時性:非因果的連関の原理」を読んでみよう。

「偶然」の世界・・偶然?必然?

共時性:非因果的連関の原理」の冒頭、ユングは次のように書いている。

「さて、われわれの経験では、因果性の領域に匹敵するとでもいえるほどの、測り知れないぐらいの広大な領域が存在している。それは偶然の世界であり、そこでは、一つの偶然の事象が、これに偶然に一致する事実と因果的にはつながっていないように思われるのである。」(p.8)

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.8

因果的なつながりを説明することができないが、しかし、たしかに、何か関係があると思わざるを得ないような事象と事象の継起を経験したとき、私たちはそれを「偶然」と呼ぶ。

例えば、「夢に亡くなった祖父が現れた翌朝、押し入れの古い箱から長年忘れられていた祖父の預金通帳が見つかる」といった事態である。私なら、こいういうのは祖父の霊がわざわざ教えに来てくださっているのだと心から思って疑わないのであるが、今の世の中、常識をわきまえた大人であれば、「単なる偶然(だから、真剣に考える必要はない)」とか「思い込み」とか、ひどい場合は「そもそも、作り話で、夢なんて見てないんじゃないか」などと言って片付けることが「正しい」と考えられているようである。

このような「偶然」を、測定エラーのようなものとして排除せず、まずは真剣に受け取ってみよう、真剣に、偶然について語る声に耳を傾けてみよう、というのがユングの立場である。

亡くなった祖父の夢をみた後に、その祖父の隠していたお金が出てくる。
このようなことは経験的で感覚的で常識的なものごとの成り行きや、科学的な因果関係では説明しようもない。「亡くなった祖父」の存在を自然科学的な観測技術や測定機器によって「こちらです」と示すことができない以上、測定された変数同士の関係として記述することで原因と結果の関係を関数を立てて説明する手法は利用できない

それでは、今日の自然科学の観測技術では測定できないからといって、夢に出てきた者たちは「存在しない」ものとして、無視すればよいのだろうか。

1) 因果関係を関数で記述できる / できない

という分節と、

2) 存在する / 存在しない

という分節を、

因果関係を関数で記述できる / できない
||          ||
存在する / 存在しない

この向きで重ね合わせた時に、「存在するものとは、因果関係を関数で記述できるものである」と言うことができるようになるのであるが、この重ね合わせを、必ずこの向きで、このように重ね合わせなければならない、という決まり、縛りがどこかに厳然とあるわけではない。

ここで行われていることは「とりあえず、仮に、1)と2)の二つの二項対立を、上記の「向き」で重ねてみたら、世界はどのような姿でうかびあがってくるだろうか」という実験なのである。

自然科学の観測技術で測定された複数の数値の変化の間の”連動”の関係として因果関係を記述できないことがあったとして(夢で死んだ祖父にお告げをもらうとか)、このような現象を即「存在する/存在しない」の分節の、「存在しない」の側に分別してしまうのではなくて、「存在する/存在しない」とはちがう、まったく別の置き換え先をさがしてみようではないか、というのがユングの共時性の議論である。

夢のお告げと、目覚めた後の無くしたものの発見。
この二つの事象の間の関係は、自然科学的な因果関係として記述できないが、しかしそうだからといってそこに「関係がない」と言わなければならない理由はない。むしろ「大いに関係がありそうだ(科学の道具では測定できないけれど)」と考えてみる。そこにふたつの事象の共時性があるという。

因果関係は絶対的ではない

私たちは今日でもなんとなく、科学的に因果関係を説明できないような現象は「存在しない」と言わなければならないという思いを抱いて生きている場合が多いが、ユングはこの前提を問いに付す。

すなわち、「非因果的な説明が可能な事象をわれわれは想像できない」からといって、「しかしそれは何もこのような事象が存在していないということを意味するのではない」という(p.6)。

”因果関係を説明できないような事象は存在しない”という時、私たちは意識しているかどうかは別として、次のような「分別」を行なっている。

因果関係が明らかな事象 / 因果関係が不明な事象
||      ||
存在する / 存在しない

このような分別は、深層意味論の観点からすれば、他のすべての分別がそうであるように、客観的な実体として四項関係の秩序が固定して存在するというものではなく、たまたま、それこそ偶然に、人間の「」が慣例的に二つの二項対立をある方向で重ねているのである。

* *

因果関係」は、ありとあらゆる存在(あること)について絶対的に妥当しなければならない法則ではなく、あくまでも「相対的」なものである。

このことを明らかにしたのがこの本の共著者であるパウリをはじめとする物理学者たちの仕事である。

「近代物理学による数々の発見は、自然法則の絶対的妥当性を打ち砕いてこれを相対化したという点で、われわれの科学的世界観に重大な変化をもたらした。自然法則は統計学上の真理である。それはわれわれが巨視的物理学的量を扱っているときにのみ完全に妥当なことを意味している。極微量の領域においては、予測は不可能ではないにせよ不確かになる。なぜなら、極微量は既知の自然法則に従ってはもはや反応しないからである。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.5

ここでいう「既知の自然法則」が依拠する「哲学的原理」こそ「因果性」の原理であるとユングは書いている。

この因果性の原理、”原因が定まれば、その結果が自動的に、いつでもどこでも必ず同じように決まる”という事態は、物理学の世界においても巨視的な量についてのみ観測される。

巨視的な量の世界では、利用可能な測定技術で再現可能なデータ(現象の痕跡)を誰がみても明らかに同じように取得できるとき、そうしたデータの複数のセットの間に一方が増えると他方も増える、一方の増え方に対して必ず同じパターンで他方も増えるといった具合の関係がある。このとき、数式で、関数で、変数と変数の変換の関係を、一定のパターンで連動して変化する、と記述できることがある。

それに対して、巨視的な世界ではない微視的な世界では、ある条件のもとでどのようなことが生じるかは自動的に一意には決定できない(この定かではないことを、なんとかして因果性に基づく法則の言葉に近づけて記述するために、「統計」の手法が用いられることになる)。

つまりこの世では、「因果関係によって説明できないことは、存在しない」とは必ずしも言い切れない。因果関係を記述できる/できない、という分別と、存在する/存在しない、という分別は、重ね合わせてもいいし、重ね合わせなくてもよいのである。

そうなると、因果関係によっては説明できないが、しかし”なにかありそうな”事象の関係ということが存在する、ある、といえることになる。

ユングはここで「われわれはいろいろな事象を、因果的に説明可能な事象と、非因果的事象にふるい分けるという課題に直面しているのである」と書く(p.9)。

「読者は人間の経験のなかの暗くあいまいで偏見に取り囲まれている領域に踏み込むことが期待されるのみならず、このような抽象的な問題の取り扱いや説明に避けることのできない知的な困難さを覚悟しなくてはならない。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.4

非因果的連関=意味のある偶然の一致

ここでユングは因果的連関”ではない”、非因果的連関(acausal connection)のことを「意味のある偶然の一致(meaningful coincidence)」と言い換える。

偶然の一致には、人間にとって特に意味があるとは感じられない、つまり意味のない偶然の一致もある。


例えば「自宅の居間の電球が切れた」直後に、「叔母から、梨をクール便で送ったから在宅して受け取るようにとの電話が入る」ということがあったとする。この二つの事象、

事象1:電球が切れる
事象2:梨を送ったとの一方が入る

この間に「意味のある関係があるか?」と言われると、どうも関係があるとは言えないような気がする

しかし、もし、送られた梨というのが洋梨で、その形が「電球」に似ている、というようなことを常日頃から考えている人であれば、電球でありながら電球ではなくなった存在が、梨に「変身」して、戻ってくることになった、という感じで”関係がある”と思うかもしれない。

いずれにしても、意味のある偶然の一致であるかどうかは、客観的なことというよりも、主観的、ひとりひとりの人次第で決まる。

ところで、二つの事象の間に、因果関係を推定することは難しいものの、しかし、意味があると言わざるを得ないような偶然の一致がある、と言いうるためには、二つの事象は並べることができる程度に時間的に、あるいは空間的に、近接していなければならない

ところで、この時間的な近接、空間的な近接という場合のその時間の隔たり、空間の距離が人によって、時と場合によって、伸び縮みするのである。

ある場合には、同一時点の同一地点でひとつの視野のもとに捉えられる二つの事柄の間に見出される(気づかれる)意味ある偶然の一致がある。

また別のある場合には、海外旅行前に見た雑誌の挿絵と、海外旅行先で見た街の景色が「同じだ」と気づいてハッとするなど、時間的に隔たり、空間的にも隔った二つの事象の間に意味ある偶然の一致がある、と言われることもある。

夢に見た街

近接しているか / 近接していないか

言い換えると、

結びついているか / 結びついていないか

という分別は、まさに分別、それぞれの人のその時々にゆらぎ蠢く”心”による分別であって、この分別された二極は客観的にあらかじめ固定的に分かれて定まっているわけではない。つまり二つの事象が隔たっているかいないか(近接していないか、しているか)ということは、自然科学的な尺度としての時間と距離の特定の値を基準にして一意に判別できるようなことではない。

「人間が元来もっている世界観では、未開人に見られるように、空間と時間非常に不安定な存在である。それらは、主として測定の導入のお蔭で、精神発達の過程においてのみ、「固定」観念になったにすぎない。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.25

世界のどこでも、だれにとっても、同じ、単一の、一律の「時間」や「距離」という観念は、時間なるものや距離なるものを「測定」するための道具を、同じ道具を大量生産できるようになったからこそ、誰にとっても同じように、いつでもどこでも「固定」しているとみえるように”なっている”。

しかし、そういう大量生産され社会の隅々にまで普及した道具の力を取り除いてみれば時間も空間も、ひとによって、時と場合によって、伸び縮みするような感覚において現象する。ユングは次のように書いている。

「それら自身においては、空間と時間は、無から成立している。それらは、意識的精神の分別の活動から生まれて実体化した概念であり、運動する物体の行動を記述するのに不可欠な座標をなしている。それゆえそれらは本質的にに起源があり、おそらくそういう理由で、カントは、それらをアプリオリなカテゴリーと見なさなければならなかったのだろう。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』pp.25-26

時間も空間も「意識的精神の分別の活動」を通じて「実体化」したものである。

分別、そして実体化。この二つのキーワードはよく覚えておきたいところである。分別をすること、分けること、あちらとこちら、対立する二極を分けること。このような”分別すること”が生じている場であり、かつ”分別すること”を実行しているところのものが「」である。

ちょうどユングがカントのことを書いているが、ここでいう「」は、心と物、精神と物質といった二項対立の一方の極としての心ではない。心/物を分別する、精神/物質を分別する、この分別する「/」こそがここでいう「」である。

この「/」を、一回、二回、三回、重ね合わせてたところに浮かび上がる対立関係の対立関係の対立関係としての八項関係こそが「マンダラ」の図像としてビジュアル化できるものであり、ユングとパウリがこの本で「四数性」として注目している事柄にほかならない。

時間と空間の話にもどろう。

「しかしもし時間と空間が運動する物体の単なる見かけ上の属性にすぎず、観察者の知的な欲求によって造られたものであるなら、心的条件によってそれらが相対化されることは、もはや驚くべきことではなく[…]」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.26

時間や空間は、「心が外的な物体としてではなく、自己自身を観察するときに現れる」とユングは書く。時間や空間といえば、人間とは無関係に、人間が存在しようがしまいが、それ自体として厳然とある、と思われるだろうが、そのような思い、感じもまた、われわれの神経系が大量生産されたさまざまな測定機器によって拡張された結果として仮にそうなっているのである。

この辺りの話について「まさかそんな」と思われる方は、たとえば理論物理学者のカルロ・ロヴェッリ氏による下記の本などを参照いただくとおもしろいかもしれない。

心が心自身を観察すること、心が心自身の動き方を如実に知ろうとするところで、「普遍的無意識の構造」が、マンダラの姿をとって浮かび上がってくる。この普遍的な無意識の構造をあるパターンで生滅させているのがユングのいう不定形な「元型archetypes」なのである(p.26)。

元型は、無意識的な心的過程の体制化に関係する形相的因子である。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.26

ここでユングは次のように書く。

意味のある偶然の一致は、元型的な基盤を持っているように思われる。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.31

共時性の概念とマンダラの図像で、ユングは同じことを考えようとしている。それこそ、私たちの「心」の底の底、底を突き抜けたところから噴き上がってくるものが減速されて、そこに「底」の膜のようなものが湯葉状に形を成した瞬間の姿、とでも言いうるようなことである。

* *

意味のある偶然の一致を体験をすることは、その体験をした人物に「態度の本質的変化」、「魂の刷新」をもたらすことがあるとユングは書いている。

ユングのもとで治療を受けていたある患者は、合理的態度に固執しすぎるあまり、自らを困難な状況に追い込み、治療も困難になっていた。その患者がある日、「神聖甲虫」を与えられる夢を見たことをユングに報告する。その時、ユングとこの患者は「トントン」という音が窓の方から聞こえることに気づく。振り返ると一匹の黄金虫が窓ガラスに当たっていた。ユングは窓を開け飛び込んできたこの黄金虫を捉えてみせた。

このあまりにも「非合理的」な偶然の一致、夢にみた甲虫を授けられる場面を、まさにその話を報告している現場で実際に再現されるという体験を経て、この患者は合理的態度への固執から解かれ、変容の過程を歩むことができるようになったという。

態度の本質的変化はいずれも、患者の夢や空想における再生の象徴を通常伴った魂の刷新を意味している。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』pp.30-31

何らかの分別、あるかないか、あるべきであるかないか、何らかの二項対立の一方の極に固執し、そのことによって自分も、周囲の人も、苦しめてしまっていた人が、共時性の体験を通じて、固執から解かれ「態度の本質的変化」が動き出す。その過程で「再生の象徴」を夢にみる。その「象徴」はしばしばマンダラのイメージあるいは、四数性、四極が分離しつつ結合し、付かず離れずのバランスをとっているビジュアルとして意識の一番底に浮かび上がる。

四数性。異なるが、同じ

「共時的な事象は、二つの異なった心的状態が同時に生起することに基づいている」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.38

ユングが書いているこの一節に注目しよう。
共時性は、「異なる」と「同じ」が重なるところに躍り出る。

同一性
分離 * 結合
差異性

異なりながら同じ、同じだが異なる、というアルゴリズムでもって、分けつつ結びつけ、結びつけつつ分ける分離と結合を、同一のこととして”結合”したり、異なること(差異)として”分離”したりする

「元型」は、このような分離と結合同一性と差異性という二つの二項対立を重ね合わせ、その重ね合わせの方向を転換しつづけるという動的パターンであるらしい。

この元型の動的パターンから、二重の対立関係が調停された姿が浮かび上がってくる。それが神話の語りになったり、マンダラのイメージになったりする。即ち、対立する二項の間に両義的媒介項を挟み込むことになり、それゆえに二重の二項関係としての項関係が二つ重なり合った項関係になる。

ユングは「四」について、次のように書いている。

「数は[…]秩序を創ったり、あるいはすでに存在してはいるがまだ知られていない整然とした配置または「規則性」を把握するために予定されている道具である。一から四までの数が最も頻繁に現われ、また最も広い影響をおよぼしていることを考えれば、それは人間の心の中でも秩序の最も原始的な要素といってよかろう。言い換えれば、秩序の原始的なパターンはたいてい三つ組か四つ組なのである。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.55

四は、人類の「心」の「秩序」のきわめて原始的なパターンである。神経が、脳の中枢神経ばかりでなく、感覚神経や自律神経を含めて、生命が生命であるための微細なプロセスの至る所で、分別と分別が、二項対立と二項対立が、重ね合わされて「四」たちが無数に明滅しているというヴィジョンを与えてくる

そして、ユングは「数が元型的な基盤をもっている」と記す。

「われわれが数を、意識化された秩序の元型と心理学的に定義したとしても、それほど無茶な結論ではないのである。[…]無意識によって自発的に生み出される全体性の心像、すなわちマンダラ模様のいろいろな自己の象徴もまた、数学的構造を持っている。それらは一般的にいって四位一体のもの(あるいはそれの倍数化したもの)である。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.55

マンダラは、この「四」なのである。

「これらの構造は秩序を表現しているだけでなく、それを創り出してもいる」とユングは書く(p.55)。表現しているだけでなく、創り出す。表現するということは、つまり、別のところにもともとある”オリジナルの”マンダラを写しとって、”コピー”としてのマンダラ構造のイメージを描いた、ということになる。しかし、いまここで話題になっている元型イメージとしてのマンダラは、それ自体が「創り出す」動きそのものである。さらに言えばこの「創り出す」も、マンダラとは別に、その外に、何らかの”創造する主体”のようなものが存在するわけではない。ユングは次のように書いている。

「それら(注:マンダラ)が意識的な心の作り出したものではなく[…]、無意識から自発的に生み出されてきたものであるということを、再び強調しなければならない」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.55

四項関係や八項関係のマンダラは「心的な方向喪失の時期に、混沌状態を補償するために、あるいはヌミノース体験の定式化として現れるのである」とユングは書いている(p.55)。


この後ユングは第二章「占星術の実験」、第三章「共時性の観念の先駆者達」と論を進めていく。第三章では特にリヒャルト・ヴィルヘルムを参照しつつう「道教」の陰陽和合の思想を分析している。

リヒャルト・ヴィルヘルムの『黄金の華の秘密』には、ユングが長大な序文を寄せている。

+ +

このような「元型」に端を発する心の動きから発生しているのが、詩的言語であったり、神話の語りであったり、「数」であったりする。詩的言語も神話も、数も、”異なるが、同じ”の原理によって、ある事象とそれではない他の事象とを”異なるもの”として分別し、そして分別しながらも”同じもの”として重ね合わせ一つにするという動きからあらわれる。そして例の因果関係も原因と結果という、異なる二つの事象を人間が結びつけることができるのは、まさにその心の深層において、分けつつ結合し、結合しつつ分ける、という動きが動いているからこそである。

分離と結合の分離と結合の四項関係は、文学とか、数学とか、物理学とか、特定の学問の中にある記述の方法ということではなく、人間が思考するということ、あるいは好むと好まざるをにかかわらず、思考せざるを得ないということの根っこにある。

例えば、心と物であるとか、主観と客観神と人間、そして原因と結果といった二者の関係を思考する時(つまりこうした二者が”別々に”はっきりと分かれているはずなのに、繋がって一つになっているようにも見えるのは何故か、と思考する時)、しばしばこの”異なるが、同じ”という、異なることと同じであること、差異性と同一性の対立二極をひとつに短絡したような事柄が、顔をのぞかせることもある。

ここでユングは、興味深いことを書いている。

交感神経系は、その起源と機能の点で脳脊椎系とは完全に異なっているが、その交感神経系のような神経の基質は、脳脊椎と同様に、容易に知覚や思考を生み出すことが実際に可能であるという結論に、われわれは導かれるのである。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.131

交感神経系による「知覚」や「思考」。これをあえて「分別」と読み替えてみよう。元型は、対立関係をなす二極を引き離したり結合したりする動きをなす

夢においてもしばしば、自己と何者かが、近づいたり、離れたりする。
何者かが、近づいてくる。
とっさにその何かから分離しようとする。
しかし、分離しようともがきつつも、うまく離れることができない。
そうしているうちに、何者かは去っていく。
去っていったかと思えば、今度は大勢に増えて戻ってきて、またこちらを取り囲む。

自/他が、分離しているか、結合しているか、そのどちらであるかを分別しようというのは、神経系の働きそのものでもある。

「昏睡中、交感神経系は麻痺してはいないので、心的機能を司ることが可能な運搬人として、交感神経系を考えることができよう。かりにそうだとすれば、睡眠中の正常な無意識状態、そしてそこに潜在する意識としての夢が、同じ観点から見られるかどうかーー換言すれば、夢は眠っている皮質の活動によるものというよりも、眠らない交感神経系によって生み出されるもので、そのために夢は超大脳的本性のものであるかどうかーーが、つぎに問われなければならない。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』pp.131-132

分離と結合の分離と結合という、心の動きのパターンとしての「元型」は、もしかすると大脳の内部に限定された情報処理ではなく、交感神経系などにもひろがる分別のネットワークに依るのかもしれない。この交感神経的な分別、分離と結合を分けたり分けなかったりするゆらぎが、大脳の記憶されたイメージの分別と共鳴するときに、私たちはマンダラの夢をみたり、マンダラを幻視したりするのかもしれない。

時間、空間、因果性、共時性

ユングは「共時性:非因果的連関の原理」の「結論」で、時間、空間、因果性、そして共時性という四者の関係について書く。

空間、時間、因果性という古典物理学の三つ組は、共時性要因によって補われて、全判定を可能にする四つ組み、四元数となるであろう。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.134

空間、時間、因果性、共時性を四極に分けつつつなぐマンダラ。
そのようなマンダラを発生させる「元型」的な分別のプロセスとは、次のようなことかもしれない。

まず空間の分別、つまり遠い/近いの分別は、安全/危険の分別と関わる。
数百メートル離れた距離に熊が歩いているのを目撃したならば、そっと来た道を戻って静かに逃げることができるかもしれないが、いきなり目の前の塀の影から熊がぬっと姿を現したら、心臓が飛び出るほど驚くだろう。

時間の分別も、安全/危険の分別に関わる。ついさっきまで熊がいたところに行けと言われたら、まだ熊が隠れているかもしれないと警戒したくなる。しかし、1ヶ月前に熊がいたところに行けと言われたら、もちろん熊がまたいるかもしれないが、いない可能性も高い、と考えるだろう。

空間時間の分別は、極めて身体的な、大脳に限定されない交感神経も含むより広い神経系において分別されている。

そして因果関係の分別もまた、安全/危険の分別に関わるだろう。ただしこちらは、第脳的な「記憶」を参照することのウエイトが大きいと推定される。木の幹に巨大な爪で引っ掻いた深い傷がついているのを見つけた時、その傷が木に刻まれるという「結果」をもたらした「原因」は、おそらくその森の中でも一番大型の動物、それも強力な爪をつかって他の生き物を捕まえて食べるような肉食獣であろう。「結果」から「原因」を推定し、結果(木に傷がついていること)と「原因」(獰猛な熊がここにいたこと)を、空間的、時間的に別々に分離しながらも一つに連なった同じこととして捉えること。

この1)時間、2)空間、3)因果の分別は、それぞれ孤立しているのではなく、セットになっている。ただし、これだけだと三つ組である。もちろん、この三つ組で、時間の分別と空間の分別を固めた中での因果関係として物体能動を考える、といったこともできる。そして、三つ組で考えることができるということは、つまりあと一つ何かの分別を加えることで四つ組にできる、ということでもある。そのための第四の分別が共時性なのである。

「予定調和という観念とは対照的に、共時的要因は、空間、時間、因果性という承認されている三組の上に第四番目として付け加えられるべき知的に必要な原理の存在を主張しているだけである。これら三要因は必要ではあるが
、絶対ではなく
ーーたいていの心的内容は非空間的で、時間と因果性は心的に相対的であるーーまた同様に、共時的要因は、条件付きでのみ妥当であることが明らかにされている。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.132

時間が(交感神経にも根ざす)分別であり、空間も(交感神経にも根ざす)分別であり、因果もまた(交感神経にも根ざす)分別であると考えてみるならば、共時性もまた分別であるということになる。

では、共時性は一体何と何の分別なのか。

それはすなわち、偶然の一致に意味があることと意味がないことの分別である。意味があるとは、二つの事柄に関係があるということであり、意味がないとは二つの事柄に関係がない、ということである。

意味があることと意味がないこと、とはどういうことか?

これは簡単で、意味があるとは意味がないではないということであり、意味がないとは意味があるではないということ、である。訳のわからないことを言うと思われるかもしれないが、分別とはこういうことだと思っておけばいい。

同じく、関係があるか/関係がないか、という分別についても、関係があるとは関係がないではない、ということであり、関係がないとは関係があるではない、ということである。

関係があることを結合していること、関係がないことを分離していること、と言い換えてもいい。

分離/結合

おそらく、共時性が分別していることをもっとも的確に言いうるのが、この分離と結合の分別であろう。

ユングの記述を辿ってみよう。

「共時性は哲学的見解ではなく、ある知的に必要な原理を仮定とする経験的概念である。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.133


ここでユングは次のような四つ組の図を描く。

空間
因果性 + 共時性
時間

空間は、なんらかの物体の”ある/ない”を分別する。
時間は、"現在/非現在(過去ないし未来)”を分別する。
因果は、”原因/結果”を分別する。
共時性は”結合/分離”を分別する

原因+ある < 空間 > ない+分離
因果性   +   共時性
 結果+現在 < 時間 > 非現在+結合

原因が「ある」ことだけが、結果としての「現在」を生じる。
分離が「ない」ことが、非現在の結合を区切り出す。

この論文の最後に、ユングは次のように書く。

「科学時代は、対応のことは何も知らず、またすべてを時間、空間、因果性という言葉で説明し記述するという三つ組のみの世界観ーー思考における三位一体ーーを、情熱的に主張し、固執したのであった。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.135

この三つ組の世界観を、「四」の世界観に写し換えたのが現代の物理学であり、ユングがその夢を分析したパウリの仕事でもあった。

「パウリは、古典的な図式での時間と空間という対立関係を、エネルギー(の保存)と時ー空連続体という対立関係に置き換えるように提案した。この提案のおかげで、私は一組の対立関係ーー共時性と因果性ーーを、これら異質な概念同士にある種の関連を築くという考えでもって、より緊密に定義づけるようになった。われわれ二人は最終的に右の四元数に同意した。」

C・G・ユング「共時性:非因果的連関の原理」,
C・G・ユング、W・パウリ 『自然現象と心の構造』p.136

「右の四元数」というのは、下記の図である。

不滅のエネルギー
|

  結果による定常的関連性   ー ー 「意味」による非定常的関連性
(因果性)           (共時性)
|
時ー空連続体

これを次のように言い換えてみることはできないだろうか。

絶対無分節から分節が浮かび上がる
|
 同一性に基づく差異化  ー  ー   差異性からの同一化  
|
分節体系に透かして無分節がみえる

さらに言い換えると、

絶対無分節→分節
|
 同一性→差異性  ー  ー   差異性→同一性  
|
分節→絶対無分節

となる。これはどこかでみたことがある四項関係である。即ち、密教の五智如来のマンダラである。

成所作智(不空成就)
|
妙観察智(阿弥陀如来)  ー  ー   大円鏡智(阿閦如来)  
|
平等性智(宝生如来)

この四つ組から可能になる論理については、弘法大師空海が『吽字義』で書いている通りである。

上の引用でユングは「異質な概念同士にある種の関連を築くという考え」と書いている。何であれ、対立する違いに”異質な”二項には、これを分けつつ結合し、結合しつつ分ける、ということが生じている。そしてこの「分けること」と「結合すること(分けないこと・つなぐこと)」もまた、真逆に対立する”異質な”二項であり、この二項を分離しつつ結合しておくために、もう一組の二項の分離しつつ結合する関係があるとちょうど良い。それが即ち、この場合は”異なるが同じ、同じだが異なる”ということを可能にする、同じであることと異なることとの対立である。

分離 / 結合
異なる / 同じ

五智如来も、もちろんレヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析しているような神話たちも、この分離/結合、異なる/同じを、分節システムの一番底、人間の心の表層の一番底にして深層の一番上澄みにゆらめくパターンとして見出している。パウリが「」に見たように。

ユングがパウリの夢を分析して、そこに四項関係の曼荼羅をとらえていくプロセスを、上記の文献から辿ることができる。この夢の分析をレヴィ=ストロース氏の『神話論理』と並行して読むと、とてもおもしろい。

共時性は「元型」の動く姿であり、それがイメージとして意識の底に投影されたものが「マンダラ」であり、という具合に、ユングもまた同じことを見ているのであろう。

つまり、・・・などとまとめてしまうのはよろしくないのであるが、方便として、つまり、ここで起こっていることは、異なるが同じ、同じだが異なる、分離と結合を分離したり結合したりする、ということなのである。これは線形配列の言語で説明されるよりもマンダラを観想するほうが「わかる」ことのようにも思えるが、しかし言語でも、いやそれこそ数式でも、描くことはできる。詩的言語がそうだし、理論物理学もそう。

せっかくなので『心理学と錬金術I』の173ページに掲げられた図をご紹介しておこう。

万物は三にしてはただ在るのみなり
四にして初めて幸福を得るなり


『心理学と錬金術』は、別途あらためて読んでみたいと思う。

ちなみに、パウリも『自然現象と心の構造』に寄せた「元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響」において、この四、「四数性」に注目している。これについては前回の記事に書いているので参考にどうぞ。

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つづく


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