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両義的な言葉をハビトゥスに刻み込む =山内志朗著『湯殿山の哲学 修験と花と存在と』を読む

山内志朗氏の著書『湯殿山の哲学 修験と花と存在と』を読む。

湯殿山というのは、かの出羽三山の湯殿山である。

中世哲学の研究者として知られる山内氏は湯殿山の麓の出身であり、しかも湯殿山の信仰を支えた人々の系譜に連なる方であるという。詳しくは『湯殿山の哲学』を読んでいただければと思う。山内氏の筆が描き出す東北の山の中の雪の世界に誘われることだろう。

西洋と東洋、現在と過去、哲学と修験。

『湯殿山の哲学』には、一見すると全く相容れないかのように思われる二つの事柄の"あわい"に入り込む言葉がある。

例えば、冒頭の方に次のような一節がある。

「稲作の恵みを、自然という神からの贈り物と思わずにはいられない豊かさは、その背後に黒い黒い暗闇を抱えているのである。月山は、夏も消えることのない雪を源とする、水分くりの山だ。そして生命を育てる山でもある。それは夏でも消えない雪を抱いている。「雪」は呪いであると同時に恵みなのだ。この両義性ハビトゥス(経験と反復を通して、身体と精神に染み込んだ能力と性格のあり方)に刻み込むことが、雪国人の宿命なのである。雪国の人は、うずたかく積もる雪の山に呪詛と感謝とを捧げる。」

山内志朗 著『湯殿山の哲学』p.14

言葉というものをこのように綴れるようになりたい、と強く思わせてくれる一節である。

両義性

この一節を深く深く読むためのキータームとして、仮に「両義性」にフォーカスしてみよう。引用の後半の始まりにある「両義性」である。

両義性ということは、素朴には対立関係にあり相容れないと思われる二つの事柄が、表裏一体に重なっているということである。例えば白と黒、生と死、愛と憎しみ、光と闇。そうした二つの対立する事柄を一身に背負っているような存在が両義的な存在であり、その性格が両義性、と呼ばれる。

では今ここでいう両義性とは、何と何の両義性なのか。
山内氏の言葉を丁寧に辿ってみよう。

まず、呪詛と感謝、である。

呪詛 / <と> / 感謝

感謝しながら呪うこと。呪いながら感謝すること。呪詛と感謝が「」という言葉で結ばれている。

」は、二つの事柄を二つのまま一つに結びつける

別々に異なった物を異なったまま一つにすることができる、極めて呪力の強い言葉である。呪力、などと言われると恐ろしい感じがするという方は「シンボル化能力」と言い換えてもいい。「と」は、いつでもどこでも瞬時に二つの項が重ね合わされたもの、幾つもの項が重ね合わされたものを発生させることができる。

もちろん、私たちは日常そのような呪力を頼っているなどとは微塵も考えることなく、「と」「と」「と」、と、連発しているかもしれないが、日常素朴な安全で人をざわつかせることのない「と」たちもまた、二を二のまま一にする呪力シンボル化能力を迸り出しているのである。

次に、「「雪」は呪いであると同時に恵み」という文もある。

呪い / <は同時に> / 恵み

雪は、呪いである。と同時に、雪は恵みである。
雪は呪いでありかつ恵みである。

恵みと呪い、呪いと恵み。

この二つの対立する事柄を「は同時に」という言葉が一つに結びつけつつ、「」という言葉に結びつける。

Aは同時に非A
非Aは同時にA

そしてこの「同時に」両方である二重の、両義的な事柄が、「雪」という一つの言葉に結び付けられる。

そうすることで「雪」は一にして二重の、両極の意味を抱えた言葉になる。

「夏でも消えない雪を抱いて」という言葉もある。

夏 /<は抱く> / 雪(冬) を

雪、というのは冬に降る。雪は冬のものである。雪といえば冬、冬といえば雪。

しかし、その雪が、冬が、夏になっても、山の上では消えていない。

夏の山が、雪を冬を「抱いて」いる。

抱く、いだく、懐く、包摂する。

包摂する。
生が死を包摂し、死が生を包摂する。
全体が個を包摂し、個が全体を包摂する。
空が色を包摂し、色が空を包摂する。
Aが非Aを包摂し、非AがAを包摂する。

包摂もまた、「と」や「同時に」と同じく、互いに異なる二つの事柄を異なったまま一つにする言葉である。特に二を単純に無区別な「一」にしてしまうのではなくて、あくまでも二を二のまま不二にする。「抱く」ー「包摂する」は、鋭く対立する二の”二性”を際立たせたまま、それでいてなお結びつけるという点でとても良い言葉である。

同じく「抱える」という言葉を使って「神からの贈り物と思わずにはいられない豊かさは、その背後に黒い黒い暗闇を抱え」ともある。

神の贈り物と思わずに居れない豊かさ /<は抱える>/ 黒い黒い暗闇 を

明るく光り輝く豊かさが、「黒い黒い暗闇」を「抱える」。

ここでも「抱」が、光と闇を、分節と無分節を、二つまま不二であると告げる。

対立する二つの事が、ひとつになって(相互に包摂し合いされ合い)、「両義的」になる。両義的になった「豊かさ」や「闇」や「夏」や「雪」や「呪い」や「恵み」は、そのひとつひとつが両義的で媒介的な中間項になる。つまり多重の分節の発生点になる。

特にここの引用した一節で際立った両義的存在のシンボル(象徴)は「」である。

両義性を刻み込まれる

この両義性を「ハビトゥス」として身体と精神に「刻み込まれ」ることが、この本における思考の出発点になる。

人工物とシンボルたちの表面に、四方八方を覆い固められた都市文明の表層では、しばしば両義性よりも一義性が、コノテーションよりもデノテーションが、象徴よりも信号が、声高に跋扈する。その声の中で意識を立ち上げる<私>たちは、両義性ではなく一義性の方をハビトゥスに刻み込むことになるだろう。

しかし、冬の間、雪に閉ざされる山の中の集落では、雪の、山の、自然の、人の、両義性こそがハビトゥスとして身体に精神に刻まれる。

両義性は、分節と無分節の通路を開く

対立する二つの事柄の両義性を知るということは、対立関係にある何かと何か、対立するAと非Aを、それぞれ「自性」を予め備えた固着物と考えるのではなく、Aも非Aもあくまでも存在の”あわい”からゆらゆらと分節しつつ現れてくる出来事の影のようなものであると観念する可能性を開く。

両義性は、分節を固着した表層から、動的な深層へと押し戻し、そしてまたアレコレの分節を多重に発生させる撹拌棒のようなものである。

「存在が花する」

このすぐ後で山内氏は井筒俊彦氏の言葉をひきつつ「存在が花する」ということを書く。

花|が|存在|する、ではなく、存在|が|花|する

なんのことかと思われるかもしれないが、例えば井筒氏の『コスモスとアンチコスモス』に収められた「事事無礙・理理無礙」という論考などにもこの話が出てくるので、参考になさってください。

「存在」と「花」について、山内氏は次のように書く。

「存在する」とは荒涼にして不動なる砂漠とか、安定した大地とか、惜しみなき恵みを常に送り続ける太陽などではなく、「花」として表象されるべきではないのか。」

山内志朗 著『湯殿山の哲学』p.37

存在、存在する、ということは、「荒涼、不動、安定」、つまり止まって固まった殺風景に均質な何かでもない。では存在、存在するは、荒涼や不動に鋭く対立する、それらとは真逆の、”太陽”のような、非-荒涼で不-不動、非安定、熱く動き光を発し続ける躍動する生命の根源のような何かかといえば、そうでもない

存在、静でもなく動でもなく、死でもなく生でもなく、安定でもなく不安定でもない

深い土の中から芽吹き、一瞬咲き誇っては土に帰っていく。「花」のような、先ほどの「雪」のような、両義的で中間的、常に移行状態にあるものが「存在」である。

その花の両義性は、「ある」と「ない」、「存在」と「非存在」の分節さえもそこから発生してくる根源的な「存在」(存在論哲学で問われることになる存在)の両義性を告げる表象=シンボルとなる。

ここでよくよく読んでおきたいところは、次の一節である。

存在の汪溢として顕現する、いやそのようにしか顕現し得ない事物の本質は、それ自体で死の表象に纏わりつかれているのではない。存在とは、必然的存在者以外においては、生成と消滅の相においてのみ登場する。生と死とを免れる存在は、この世界には存在しない。」

山内志郎著『湯殿山の哲学』p.46

あれこれのあるとかないとか言われる事物は、根源的な「存在」の「汪溢」であり「顕現」である。それは、溢れる、現れる、といった「動き」の相にあり、「死」という上の静/動の対立でいえば静止の方、止まった、動かない、固まった方に押し込めることができるものではない。

これはつまり、何がしかの事物があるということの意味を考える際に、「生か、死か」「動か静か」の二者択一で”どちらかを選べ”という弁術では対処できない、ということである。

事物があるということ  / 非-事物があるということ
||               ||
生 / 死

または

事物があるということ  / 非-事物があるということ
||               ||
死 / 生

などとおいて、事物とは死なのだ!とはやらない

二項対立のどちらかに振り分けることで「分かった」ことにしない(できない)というのが、両義性の思考である。

両義性の思考では、存在は「生成と消滅の相においてのみ登場する」ということになる。つまり存在の本質は、生でもなく死でもない、どちらでもあってどちらでもなく、どちらでもないがどちらでもある。

二つに分かれているような分かれていないような、分かれているけれども分かれていないような、分かれていないけれども分かれているような、そういう中間的な「通り抜け」状態こそが、何かが何かとして存在するということである。

このことを巡って「存在」が、として、あるいはとして、として、として、あるいはとして、そして「」として、「顕現する」という。

<私>は、"私|ではない-もの|ではない-もの"の配列である

山内氏は次のようにも書かれている。

「自分とは、この世に一つしかない特権的で、かけがえのない<私>というよりは、世界や<存在>を成立させる一つの実例(instance)なのだ。<私>とは、<私>のずっと手前にある非人称の地平から、浮かび上がってくる声か光なのだ。<私>ならざる声、<私>ならざる光を、「私のもの」として感じるときに、<私>は現れ出る。

山内志郎著『湯殿山の哲学』p.70

私は、<非-私>と<私>とを区別”する”こと、分節”する”動きのことである。

<非-私>と<私>の区別を、アレコレの声と声の間の区別分節と、あれやこれやの光と光の間の区別分節と、幾重にも重ねていくこと、重ね続ける動きを止めないことで出現するそれぞれ様々な二項対立関係なす項たちが多重化された系列である。

<非-私>/<私>
                      ||
あの声/この声
                       ||
あの光/この光
                       ||
あの姿/この姿

いつの間にか反復されて習慣的に強く「=」で結びついた項たちの連鎖が、いつしか「私」というまとまりになる。

そしてそれは、遠い昔からずっと一貫して一塊であったかのような安定感を醸し出すことになる場合もあるが、しかしこの時の「=」は、あくまでも冒頭の「」である。

「と」は、外れかけた蝶番、外れかけた連結器、剥がれかけた両面テープのようなものである。

必死に執着して「と」で貼り直し、縫い直し続けていかないと、あっという間に非-私と区別できないことになってしまう私。

上の引用に続けて、山内氏は「我執」という言葉でもってこのことを書かれているので、ぜひ読んでいただけると良いと思います。

言葉が、「と」が、「同時に」が、「包摂」が、付かず離れずでどっちもどっちの曖昧な宙ぶらりんを発生させるようなことしかできない「しっかりしていないもの」「固くないもの」だからと言って、取るに足らない無価値なものであるのかといえば全くそんなことはない。

価値があるかないか、無価値か有価値か、などという二者択一の発想は、分節する動きを固着させがちな、何でもかんでもそこに引っ張り込んでしまう恐るべき二項対立である。

曖昧さや中間性や両義性といった、ゆるく揺れて震えているモノを低く見るのは、それはそういう価値が低いの高いのという見方(意味分節)に執着を起こしているからである。

固い / 柔らかい
かっちり / いいかげん
固まっている / 揺れている
止まっている / ブレている
良い / 悪い
||     ||
価値が高い / 価値が低い

これに対して、こういう二項対立もその重ね合わせも全て、習い性でそのように分けたから、そのように重ねたから、たまたまそうなっているのだということに常に思い至るようにしつつ、あれこれ試しに分節しては繋ぎ、繋ぎをほどき分節を無分節に送り返しては、また試みに分節して繋ぐ、といったこをと飽きることなく遊ばせることが深層意味論的な思考なのだろう。

意味分節システムの中でシミュレーションする

山内氏はここで「小さな哲学」と書かれている。

「梵我一如にみるまでもなく、無限の落差言葉か概念か、いや私ならばハビトゥスと言いたいのだが、そういった秩序あるものに収めることこそ「小さな哲学」の目指すことだ。」

山内志郎著『湯殿山の哲学』p.76

言葉、概念、ハビトゥス。すなわち「秩序あるもの」。

"全ては分け方次第つなぎ方次第、結局全てつながっていて、たまたま色々に分かれているのですよね"といったところで、しかしそのたまたまこのように分かれて重なっているあれこれの一つ一つ、一つの花、一人の人、一人の「私」を徹底的に大切にしつつ、互いに分かれた「他」とつながりあい包摂しあっていることに思いを馳せつつ、つながり方をわずかでも切ったりつなぎ直したりする言語的意識の可能性に賭け続ける

言葉は、ハビトゥスとししての意味分節システムは、そういう”繋ぐ線”を”媒介者”を、その両義的な言葉遣いのもとに発生させる。

放っておくと一つになってしまうところにあえて分節を区切りつつ、しかしその分節の両極の発生する二項は相互に包摂しあい一方の項は常に他方の項と両義的であると語りつつ、しかしあくまでも分節を区切り続ける。そういう思考は生命そのものと不可分一体の強烈な印象を与えるものになる。

◇ ◇

安藤礼二氏の『列島祝祭論』には、墓から居なくなった死者の話や、夢でのお告げに従ってうつつを生きる話や、髑髏の舌だけが生きて読経する話などが出てくる。

これらもまた、無分節から発生しつつある分節のふるえのようなことを捉えようとしている。

いにしえから私たち一人ひとりにとって大問題なのは、自分自身が好むとこの混ざるとに関わらず、そういうものだと思って使ってしまっている意味分節システム=言語の起源である。私を私ではないものではないものとして分節することを可能にしている意味分節システムが、一体どこでどう出来上がって”私”に憑依するに至ったのか

抽象的で一般的な言語なるもの起源ではなく(もちろんそれも重要なのだが)、私たち一人一人にとっての言語の起源である。

私たち一人一人が内部と外部を分節し、内部の意識を分節し、外部の存在を分節する。その分節のやり方は、どのようにして一人一人のところで発生し構造化していくのだろうか。

始まりは、私たちがベビーとして生まれ、そして他者たちの言葉を聞かされるところからである。「私」と「言葉」は、必ずどこかの誰か、他の人々との間で出会う。

感覚と記憶の統合。耳に聞こえた音と目に見えた色形に動き、味や匂いや皮膚感覚に、体内の感覚。それらの現在の感覚情報と、過去に体験したことが多重に変換され記号化された情報の比較と統合。そういう互いに区別分節できる事柄を、分けつつもつないでいくプロセスを繰り返しながら、「私」たちは何かに直面しては当意即妙に言葉を発したり発せなかったりするようになる。

私たちの身体の感覚器官と神経系は、身体に接触する何かの音や光や暑さ寒さや硬さや柔らかさの差異を、身体システム内で通用する情報媒体の流動パターンに変換する。

身体表面に触れる外界の差異のパターンを、身体内部の情報媒体の流動パターンの差異に変換する。

言葉もまたは、音による声であれ、光による文字であれ、身体外部の差異のパターン、身体表面に触れてくるものの差異のパターンである。そのパターンが感覚され、記憶される。外界の差異のパターンに基づいて、身体内部に第二の差異のパターンが作り出される。

このパターンがいったん出来上がると、外界からその差異パターンがリアルタイムで押し付けられていない時にも、身体内部の差異のパターンが動き、外界の差異のパターンをシミュレートできるようになる。

このパターンのことを山内氏の言葉を借りて「ハビトゥス」と呼んでも良いかもしれない。あるいは言語アラヤ識と呼んでもいいし、意味分節システムと呼んでもいいかもしれない。

このハビトゥスというか識というか分節システムによるシミュレートは目覚めているときにその動いている様子を眺めることもできるし、意識的自覚的にこの言葉はどの言葉に置き換えられるかな、と唸りながら言葉の組み合わせを捻出していくこともでき、あるいは睡眠中にを見ているときなどは勝手に動き出し、走り出すこともある。

「私」はただただ夢を「見せられて」おり、夢の中で勝手に、誰かがしゃべったり物事が進行したりしていく。

夢ばかりでない。寝ている時も起きている時も、意識の深層では象徴が自在に発生し、象徴同士が自在に呼応し、結び合い、変身しあう。その不鮮明で歪んだ影が、時々、表層の意識にうつる

そういうほとんど目覚めていないような目覚めの中で、言葉によって、特に「と」や「包む」のような言葉を通して、その向こうに分節システムの網の目が、花が咲くように発生しては消えまた発生しては消える様を眺めることこそこの上なく小さく大切な瞬間なのかもしれない。


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