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言語とは一に一を憑けて一にする呪術である - 井筒俊彦著『言語と呪術』を読む

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しばらく前から安藤礼二氏の熊楠 生命と霊性引き続き読んでいる。

今回の記事は前に書いた下記の記事の続きである。

もちろん前回を読んでいなくても、今回だけでお楽しみいただけます。

安藤礼二氏の熊楠 生命と霊性の159ページに次のようにある。

[…]折口信夫の「産霊」と井筒俊彦の「存在」は、自らのなかから森羅万象あらゆるものを生み出すという点において等しい。同様に、折口も井筒も、そうした生命の発生と言語の発生を一つに重ね合わせていた。生命の母胎は同時に意味の母胎でもある。(安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.159)

生命、と、意味。

一方は生き物の話で、他方は人間の言葉や記号の話である。一見まったく無関係のことのように思われるこの二つの「母胎」が同じであるとはどういうことだろう?

それはすなわち生命も意味もどちらも煎じ詰めるとあるひとつの同じ「動き」としてイメージできる。生きることも意味することも一面では分化」する動き、区別する動き、差異化する動き、二でないところを二にする動き、区別がないところに二つの事柄の区別を区切り出す動き、である。それとともにこの動きというのはもう一方の面では、二を結びつけて一つにする動きでもある。

分けながらつなぐ、というと矛盾していると思われるかもしれない。分けるのか、つなぐのか、どちらなのか、はっきりしておくれ、と。

しかし生命と意味において動いている動きは、あくまでもこの矛盾した分けながらつなぐなのである。

分けながらつなぐというのがどうしてもわかりにくい場合は、あるいは、もともとひとつの何かが二つの仮面を自在につけ替えることであるときは一方の姿、またあるときは他方の姿を私たちに見せる、と言い換えてもいいかもしれない

「不-二」が不二のままでありながらも(而)二であり、それが即二が二のままに、しかしながら(而)、二ではない(不-二)という具合に分けつつつなぎつなぎつつ分ける動きである。

わけることとつなぐことが排他的に対立せずに、同じことの双面であるような動きとその動きを生じる傾向こそが、生命と意味、生きることと意味することの両方に共通する表には見えない想像上の"深層"で動いているアルゴリズムなのである。

そこから複雑で安定的に再生産され続ける流動体にして構造である生命システムや意味分節システムが形を成してくる。

この「底」のようなことを、熊楠や大拙や折口信夫は「曼荼羅」「法身」や「霊性」や「産霊」といった仮名(けみょう)によって言語的に思考しようとした。

「法身」は、そして「曼荼羅」は、生命の母胎であるとともに意味の母胎である。(安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.158)

「わける」と「つなぐ」最小のアルゴリズムから複雑な動的構造が発生する

それにしても、一が二であり二が一であるという奇妙なアルゴリズムから、一体どうして生命体や言語システムのようなしっかりと安定した構造を持っているように見えるものが出来上がってくるのだろうか?

その鍵は、前に下の記事でも紹介した4項モデルにある。

一を二に区別しながら一に結ぶ、一が二であり二が一である、というこの「わける」と「つなぐ」を双面にもつひとつの動きは、下記のような具合の4項関係を発生させる。

(石燕) - (燕石)
|   ×        |
(酢貝) - (眼石)

ここに書いてある「石」とか「燕」とかが「何を意味しているか」といったことは疑問に思っていただく必要はない。例えば、下記のように書き換えてもいい。

○ - △
| × |
◎ - ■

ここで○とか△には、それ自体の中に秘められた「意味」などない。

重要なのは「-」とか「|」とか「 ×」で表した「線」の方である。

この線はわかりにくくで恐縮であるが、「わける」と「つなぐ」を双面にもつひとつの動きを象徴する。

この「わけつつつなぐ」動きを通じて、線の両端に○や△や◎や■が区切り出されてくるのである。こうなると○や△や◎や■はただ、互いに他とは「違う」ということだけを主張する何か(他ではないものではない)であって、「それ自体」がどういう本質をもつかといったことは大した問題ではなくなる。

生命の四項関係

この4項関係が、生命体や言語の意味分節システムといった複雑で安定した動的構造の最小単位として動く

生命システムは、ある分子がある条件のもとで他の分子のあるものと選択的に結合したり結合しなかったりする、という基本的な動きを反復するところから始まる。その動きの反復が、生命システムの内部とその外部の環境を区別し、生と死を区別しようとする。

(生) - (死)
|   ×        |
(自) - (他)

この動きは区別を無化し区別以前に回帰しようとする傾向に抗って進むように見えるけれども、しかし区別以前の無分別こそ区別がそこから発生してくる土壌である。

区別があることと区別がないこと、区別された後と区別以前、どちらもおなじひとつ「わけつつつなぐ」の動きの二つの面、双面である。

この分子と分子の分離と選択的結合の流れのことを、モデル化し、図像化し、記述するために、「法身」や「曼荼羅」や「霊性」のモデル、すなわち区別することと区別しながらも一つにすることの双面性をもった「一が二であり二が一である」のアルゴリズムはぴったりなのである。

意味分節システムの四項関係

言語の意味分節システムの場合はどうだろうか?

言語において「意味する」ということはクロード・レヴィ=ストロース氏がいうように、ある語を別の語に置き換えるということである。

例えば次のような具合である。

赤はりんごの色です

(りんご) - (りんご以外)
  |  ×  |          
(赤い) - (赤以外の色)

これを抽象化すると、さきほどと同じになる。

○ - △
| × |
◎ - ■

置き換えるということは、○と△や◎や■を互いに別々のはっきり区別されるものと置きつつ両者を「(異なりながらも)同じ」と置くことである。

異なるが同じ、違うけれど一緒、という矛盾しながら同一ということが言語が意味するということを動かしている。ここでもまた「わけつつつなぐ」動きが、一が二であり二が一アルゴリズムが、動いているのである。

この違うけれど一緒と置く処理を反復しつつ多重化していったあとに、相対的に安定しているように見える言語の意味分節システムが「発生」するように見えるわけである。このあたりの話については、下記の記事にも書いていますので参考にしてください。

ただし、この発生の相、「わけつつつなぐ」が動いている姿は、日常の言語が意識に現れる表層の姿では、あまりよくわからないように隠されている

日常生活の円滑な運行を支える道具としての言葉、信号としての言葉では、分け方、つなぎ方は、動いておらず、固まって静止しているように見える。

言語の意味分節システムには動と静二つの姿を見ることができる。

デノテーション

ひとつにはデノテーションと呼ばれる、意味分節システムが「「差別的」な一義性」を固定しようとする働き方がある。

ある語に対して、それが意味することとしておくことができる別の語が、あらかじめ決まっているはずだと決めてかかるのがデノテーション的な分節の仕方である。

日常の「りんごをください」「はいどうぞ」という類の言葉のやり取りは、デノテーションの一義的な意味分節システムが複数の話者-聞き手の間で安定的に固まっていることに拠っている。

この場合、言語の意味分節システムは暗号解読のためのコードのようなものと想定される。

コノテーション

もうひとつはコノテーションと呼ばれる、意味分節システムが「「包括的」な多義性」を創発発生するよう動き続ける働き方である。なにかの言葉が他のどの言葉を「意味する=置き換える」かは、あらかじめ決まっておらず(日常的には決まっているように見えるけれども、それはあくまでたまたまそうなっている仮のことで)、言葉と言葉の置き換え方を変えていこうとするのがコノテーション的な分節の仕方である。

例えば「月が綺麗ですね」という類の言葉でもって、事実の報告とは別の何事かを「意味する」というのが、コノテーションの包括的で多義的な分節と置き換えの発生である。

日常においては「月が綺麗ですね」に対しては、まさしくそれを事実の報告として受け止めて「はい、そうですね」くらいに応答しておくのが適切である。

また「はいそうですね」という無粋な人に対して、「いやいや、いま月が綺麗ですねと言ったのはそういう意味ではなくてですね…本当の意味は…」などと説明を始めてしまうのもコノテーションとは関係のないデノテーションである。

”「月が綺麗ですね」は「愛しています」と一対一で置き換えられます。知らなかったんですか?ちゃんと覚えておきましょうね”

とやってしまうのは新しく一義的コードを設定していることであって、コノテーションではない

包括的で多義的なコノテーションは、いつまでも開かれたまま、あれかこれか、一体なにか、わかるようなわからないような、はっきりしない宙ぶらりんのまま、決定されない

なんとも言えないのだけれども、何も言わずには居れない、というようなところでコノテーションの言葉がうごめく。

というのはまさしく別々に分かれている二項のあいだを「わけつつつなぐ」中間的な出来事である。単につなぐ一方でもなければ、わける一方でもない。

そういうことをあえて言葉にしようというのであれば、あらゆることを二項関係のどちらか一方に振り分けてしまおうとするデノテの論理ではなく、どちらでもあってどちらでもないような、中間的な曖昧さと包括性を許すコノテの論理のほうがあっている。

コノテーションの技術=呪術

こういうコノテーションを意識の表層で経験するには「技術」が必要である

例えば詩を詠む技術

そして、呪術

[…]折口は、柳田國男との出会いを経て、伝達の言語を成り立たせている意味の「差別性」を破壊し、表現の言語を成り立たせている意味の「包括性」を露呈させる技術にして芸術「憑依」という現象に見出していく。「憑依」は人間と神と獣、人間と森羅万象の区別を無化してしまう。(安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.163)

呪術というのは、なにも恐ろしいことではなく、例えばお守りを持っていると危険を避ける能力や幸運を得られるというようなことも呪術である。

もともと幸でも不幸でもないところに、お守りを授けられることによって、幸運をつけてもらう、という考え方。

上の引用にある「憑依」とは、このつけるということである。

憑依のための呪術の極めて印象深い例が、同じく安藤礼二氏の列島祝祭論に示されている。

黒が白を反復し、黒が白を「もどく」、つまり過剰な「真似」をするのだ。白と黒、能と狂言、厳粛と滑稽、二つの対立する要素が、よく似た分身であると同時に正反対の姿をもつ鏡像でもある二体の「翁」によって、激しい反復のうちに一つに統合されていく。「翁」とは、文字通り、差異と反復の芸術そしてある。[…]人間はそのときーー差異と反復が一つに重なり合い、一つに溶け合う瞬間ーー人間ならざるもの、すなわち人間を超え出た「神」へと変貌を遂げる。(安藤礼二『列島祝祭論』p.8)

真似をする、演じる、もどく、面をつける

生きた人が、神や、死者や、植物の霊などを演じる

人と神、生者と死者、人間と草木といったものは日常の意識の表層ではしっかりと区別された二項対立関係の両極にある。

しかし真似をする、もどく、演じることで、生身の人間が人間でありながら神や死者や山川草木の霊に「なる」。それが生身の人間に神や死者や山川草木の霊が「つく」「憑依する」ということである。ここに二項対立の「どちらかいっぽう」ではなく、「どちらでもあってどちらでもない」曖昧な宙ぶらりんを許す中間領域が開くのである。

このどちらでもあってどちらでもない中間領域というのは、冒頭に書いた「分けつつつなぐ」が露わになるところであり、言語においてはコノテーションであり、生命においては物質(分子)からの生命の発生である。

この憑依を引き起こす技術かつ芸術が、過剰に互いを真似し続けるよく似た二人の「翁」の舞であるという。

井筒俊彦氏の『言語と呪術』

こうした憑依を引き起こす呪術こそが、言語のコノテーションの相に浮かび上がる意味の発生と同じことだと論じたのが井筒俊彦氏である。井筒俊彦氏の『言語と呪術』には次のようにある。

私はまず、言語と呪術はともに最終的には人間の心がもつ基本的な要請にまで遡ることができる、とある程度の確信をもって仮定することから始めたその要請は[…]象徴形成に向かう人の本性的傾向である。

井筒俊彦『言語と呪術』p.15

言語と呪術』はもともと英語で書かれた本であり、これが数年前に日本語に翻訳されたものである。その時の監訳者が安藤礼二氏である。

言語と呪術の底にあるのは、人間の心の「象徴形成に向かう」傾向である。井筒氏は続けて次のように書く。

呪術が言語進化におそらく先立つと言えるであろう。なぜなら、より低次の象徴化の諸過程がすでに横溢し、増殖した場でなければ、人間言語のように精巧で高度な形態の象徴体系が出現しえたとはとても考えにくいからだ。

井筒俊彦『言語と呪術』p.15

言語はまず、象徴化する動きから始まったというのである。

象徴化する動きというのは、まさに何かで他の何かを「象徴する」ということで、つまり何かと何かを「わけつつつなぐ」という、ここまで繰り返し論じてきたことに同じである。

そして言葉において、この「わけつつつなぐ」動きは、コノテーションの包括的で多義的で、曖昧な中間領域を許す論理の姿で、私たちの意識にあらわれてくる。そして身体の動きを伴いつつ呪文を声に出す儀礼こそ、言語と呪術が同時に発生してくるところである。

ただし、コノテーションとして始まった言語は次第に中間領域を許さない、両極に固まった区別と、その固まった両極のどちらかへの置き換えだけを許す一義的なデノテーションがより全面に立つものへと転化していった。

言語は呪術師や魔術師のような象徴を拡散する人々の手からますます解放されてゆき、世俗化された社会で営まれる人間生活の全き複雑さに適応する道具へと徐々に自己を変革していった。

井筒俊彦『言語と呪術』pp.15-16

こうしてお店で「りんごください」といえばモツの味噌煮ではなくりんごが出てくるような、便利でスムーズな透明なコミュニケーションができる言語共同体が成立するのである。

しかしそうであっても、ありとあらゆるものをありとあらゆるものの象徴にしてしまうような法外なコノテーションと、かっちりと安定して何かを何かに置き換える信号のようなデノテーションのどちらが言語のより基本的な姿なのかといえば、それはあくまでも前者のコノテーションの方なのである。

コノテーションが「先」

まずかっちりとしたデノテーションが先に固まっていて、それが壊れたりエラーを起こしたり暴走したりして、二次的にコノテイティブ(connotative)な多義的象徴を生じたのではない

まずコノテイティブな、自在に象徴化できる-象徴を発生させることができる動きがあり、それある一定の固まった区別の体系の中での予め決められた置き換え・等置操作へと限定され、切り詰められたところに、デノテーションの一義的に固まった世界が出来上がったのである。

象徴化しようとする傾向を自在に遊ばせておくのがコノテーションで、一定の決まった動き方に限定しておこうとするのがデノテーションである、といってもよい。

言語的に意味分節された「現実」はヴァーチャルリアリティ

以上のことは、言葉と「現実」の関係について再考を促す。

われわれの原初的な実在世界のもつ構成は、われわれ自身の言語のもつ構造の諸パターンに大いに依存している。常識が具体的で客観的な実在と信じているものは、注意深く観察すると、大部分が言語的慣習の産物であることがわかる

井筒俊彦『言語と呪術』p.34

現実というものが言語とは無関係にそれ自体としてかっちりと存在しており、言語というのはその現実に対して後から貼り付けられたラベルのようなものであるという素朴実在論の考え方は、デノテーション的な一義的で固着した意味分節システムの「かっちり」した様が言語外の現実に投影されたものであるということになる。

ところが今や、言語のより古い姿はデノテーションではなくコノテーションであったとなると、いわゆる私たち人間が自分たちの意識と言語的思考において「ある」と思ったり語ったりしている「現実」なるものは、言語の意味分節システムの中に作られたバーチャルリアリティだということが明らかになる。

内包(コノテーション)は、直接的な周囲の要因から独立的に働いており、われわれの言語的思考を大いに自律的にしている。[…]われわれは、なぜ言語が決して意味の実装を保証しないのかを理解することができる。内包の世界は「竜」や「一角獣」や「燃素」のような存在しないものが十分に「イヌ」や「机」とまさしく同じ資格で闊歩することのできる世界である。しかしそれが可能なのは、ひとえに、この世界ではイヌや机でさえもやはり単に呼び出された幻影であるに過ぎないからなのだ。

井筒俊彦『言語と呪術』p.126

揺るぎなく固まっていて、まるでそれ自体の本質によって自ずから存在しているようだ、と信じることができるようなある種の強靭な仮想現実が、固定化した意味分節体系の上に出来上がったのである。

意味分節システムを変容させる/意味不明な「有-音」

しかしそうは言っても、この固着した分節体系が「固着」しているのは、あくまでも「わけつつつなぐ」動きを通じて常に動的に発生・再生されているからである。たまたま同じような姿になるようにエラーを排除しながら慎重に再生修復する動きが続けられているために、その動きが動きに見えないくらいに静かに同一性を保っているように感じられるというわけである。

現実ということが言語の意味分節システムの上に作られる仮想環境であるからこそ、コノテイティブに象徴を新たに作ることができる呪術の力は「世界を新たに意味づけ、世界を新たに秩序づける[…]社会の秩序を解体し再構築できる」ことになる(安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.164)。

では人間の心がもつ「象徴形成に向かう」傾向はどこからどのように動き始めるのであろうか?

ここで井筒俊彦氏は「声」「息吹」に注目する。

声が、音が、あるということ。無音ではないということ、無音と区別される有音であるということ。

無音と有音の区別が、他の何らかの感覚的な区別記憶された区別と重ね合わされるところから、最初の象徴が、意味が、発生する。

薮の向こうからガサガサという音が不意に聞こえる。

夜の森の中で、落ち葉をふむ音が不意に聞こえる。

この聞こえるという聴覚において、相対的な有音と無音、注意されるべき音と背景音とが区別、分節、分化する。

そこに視覚や嗅覚が分別した情報や、過去に経験した分節の記憶が総動員されてくると、有音と無音の区別は、危険な動物が接近しているとかいないとか、よく知る人の足音であるとかないとか、緊張と弛緩とか、そういった区別と重ね合わされて、音の「意味」が発生してくることになる。

(有 音) - (無 音)
|     ×     |
(猛獣が体を動かしている) - (  何も動いていない  )

ここで有音は「なにか」を「象徴する」よう動いている

名としての言葉はどれも、多かれ少なかれ、限定的で潜在的な連想の可能性をもつという重要な事実が浮かび上がる。「外延対象」があろうとなかろうと、言葉が発せられては、連想のもつこれら潜在的な可能性はみなただちに起動状態に入るということは、注目に値する。

井筒俊彦『言語と呪術』p.131

ある音が、何かを連想させる。

薮から聞こえるガサガサという音が、姿のみえない獣の存在を連想させるのと同じである。

「有-音」が「なにか」を連想させる、即ち「象徴する」というのは、言い換えると、「有-音」と「なにか」をつけるということ、「なにか」に「有-音」(あるおと)をつけることであり、「有-音」に「なにか」をつけることである。

ここでは「有-音」と「なにか」をまずそれぞれ別々の出来事として区別すること、分けることが行われており、そしてそれと同時にその二つが異なりながらも互いに置き換えられる。「分けつつつなぐ」が、象徴すること、連想をすることの中で動いている。

心にある特定数の連想可能性を起動する言葉のこの傾向こそが、言葉の根本的な適用性の領野を限定し確定する。

井筒俊彦『言語と呪術』p.131

象徴すること、つけること。それが即ち「憑依する」ことであり、この憑依を意図的に「憑依させる」ように仕向けるのが呪術ということになる。

この連想させるー象徴するーつけるー憑依させる、という点で言語と呪術は同じなのである

まとめ

連想させるー象徴するーつけるー憑依させるということができるようになるためには、先に象徴する側の項と象徴される側の項とが別々のものとして切り分けられていなければならない。憑依する側と憑依される側、シニフィアンとシニフィエが「ふたつ」であるからこそ、二つのうちの一方が他方に「つく」ということが可能になる。

本記事の冒頭に書いた「分化」というのが、この二つを切り分けることに該当する。

厄介なのは、この分化する動きそのものの「動き」は、通常意識の表層には「動き」としては浮かび上がってこないということである。

日常の自覚できる意識の水準では、世界は、すでに分け終わっている。分割済み、区画済み、分節化済みであり、分けようとする「動き」そのものは静止した区画の境界線の底に隠れてまったく見えなくなっている。

われわれは言語が引いた線に沿って「現実」を分割し、その結果生じた区分は世界の自然な、すなわち客観的な分節であるとみなす傾向にある

井筒俊彦『言語と呪術』p.149

分化する動きが分割し、境界線を引いた後に、区切り出されて一定の枠の形のもとに静止した区画たち。そういう区画ひとつひとつを、井筒氏は「実体」と呼ぶ(井筒俊彦『言語と呪術』p.162)。

実体は、それ自体として初めから静止して転がっていたわけではなく、分化する動きによって区切り出され、実体として発生した(実体「化」した。「化」という言葉は変化の化であり、形が動くということを意味する)ものであり、あくまでも「動き」の痕跡、「動き」に伴う、動きあってこその、動いているからこその「動に対する静」なのである。

この実体化した止まって見える区画の境界線・輪郭線に対して、揺さぶりをかけるのが、呪術的で象徴的な「つける」語り口である。

ある言葉は、日常の固着した区画の姿をしているときには、いつも決まった隣接区画と隣同士にくっついている。

日常の表層意識においては分化する動きが静止して見えるとともに、「つける」動きもまた特定のペアの関係に固着している。

そこに対して「つける」動きが、その象徴的で呪術的な本来の躍動する傾向を蘇らせると、ある区画は普段は隣りあわないどこか遠くの他の区画と突如として結びつく

そうするとこの境界線を飛び越えて「つける」動きは、静止したかに見えていた境界線たちを動かし始める

ここに分化と結びつき=区別と置換の運動が、動的な姿を取り戻し、意味を出来合いの体系から発生の運動へと引き戻すのである。この出来合いの意味がデノテーション、発生の相にある動的意味がコノテーション、ということになる。

また長くなってしまったが、今日はここまでにしましょう。

つづく

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