生命と非生命/意味と無意味/区別する動きと二項対立の発生 -安藤礼二著『熊楠 生命と霊性』を読む
安藤礼二氏の『熊楠 生命と霊性』を引き続き読んでいる。
私たちが日々あたりまえのように生きている世界には、多種多様な二項対立関係がある。例えば、暑いと寒い、明るいと暗い、快適と深い、安心と不安、男と女、老人と若者、人間と動物、月と太陽、野菜と果物、生のものと火をとおしたもの、前と後ろ、上と下、右と左、生と死、あの世とこの世、天と地、生命と非生命、そして物質と精神。ほかにも挙げればキリがない。
このような二項対立関係にある二つの項は、同じものあるいは同じようなものあるいは同じ尺度の上に並べることができるものでありながら、その程度に違いがある、尺度上の位置に違いがある、といった関係にある。
例えば太陽と月はどちらも空に浮かぶ丸い天体であるが、その光り方に明るいと暗いの違いがあるし、形にも満ち欠けしたりしなかったりという違いがあるし、地表から観測した場合に空に描くことができる軌跡にも違いがある。
同じようだけれども、違う。そういう二つの事柄のペアを、私たち人類は日々何気なく暮らしているだけで自分の周囲の世界の至る所に見出すのである。
対立関係にある二項の発生
さて、ここで問うてみたくなるのは、次のことである。
すなわち、この二項の対立関係はどこから来たのか?どういう経緯で始まりできあがったのか?
素朴に考えると、来るも来ないもなく始まるも始まらないもないように思われる。世界は最初から二項対立関係としてできあがっており、暑いものはは暑いし、寒いものは寒いのだ、という具合に。
しかし、よくよく考えてみると、あらゆる二項対立関係は「最初から」このようなものとして「あった」ものではないということに思い至る。
地球上で暑いとか寒いとか言うのは人間という生き物の特性に基づく区別である。天体なども宇宙の塵がたまたま現時点で今のような人類が識別できる姿に集まっているものである。上と下もこの惑星球体の表層で重力に捉えられている生命が区別することである。
こうした二項対立関係は、二項を区別するから、区別したから、区別する作用が最初に動いたから、その動きのあとにできあがった対立関係としての姿をあらわすことになったものである。
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では、生と死の対立関係はどうか? 生命と非生命の対立関係はどうか?
生死のような二項対立は、それが分かれていない状態を考えることが難しく、最初からしっかりと分かれており、分かれる以前は無いようにも思われる。
しかし、例えば、ビッグバンの数秒後の宇宙では何が生で何が死だと言えるのだろうか?
超新星爆発は星の死だとも言われるが物質とエネルギーの集まり方の様相が変わっただけで引き続き生きているとも言えそうだ。
地球に生命が誕生する前には何がどう「死ぬ」と言いうるのだろうか?
どうやら生死の対立もまた、上と下のように「区別するから区別されるのだ」と考えることもできそうである。
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それにしても生死未分のようなことを「考え」て、言葉にするためには、どのように論理を組み立ていけば良いのだろうか?
ここで登場するのが『熊楠 生命と霊性』である。
本書のタイトルにある「霊性」というのが、まさにこの二項が「一」から分化する動き、二項対立関係が発生する動き=二項対立関係を発生させる動きを呼び表す言葉なのである。
大拙は、「霊性」を、現実の認識を成り立たせているさまざまな二項対立(精神と物質、主観と客観、無限と有限等)を一つに止揚してしまう働きと捉えている。[…]「霊性」は「AはAではない、故に、AはAである」という絶対矛盾の体験を、そのあるがままに肯定し、可能とする。(安藤礼二『熊楠 生命と霊性』pp.134-135)
大拙というのは鈴木大拙である。鈴木大拙については同じく安藤礼二氏がその名も『大拙』という本を書かれているので、別途またご紹介したい。
大拙は「霊性」という言葉で、ある「働き」を捉えようとした。
その働きとは「現実の認識を成り立たせてる」「二項対立」を、二つでありながら一つにし、一つでありながら二つにする動きである。この働きを通じて対立関係にある二項が分化し、対立関係が発生する。この分化・発生の相にあっては、二項は一つでありながら二つであり、二つでありながら一つであり、しかしあくまでも二つであり、そして一つである。
二 即 一、一 即 二
ということを許すこの不思議な論理を、中沢新一氏はロゴスの論理に対するレンマの論理として論じている。それについては下記の記事に書いたことがあるので参考にどうぞ。
さらに井筒俊彦氏の深層意味論はまさにこの一が二へと分化しつつもあくまでも一であり、そしてそれゆえに二であるという局面がダイナミックに発生する様子を言葉でもって捉えようとしたものである。
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この「働き」を、大拙は「霊性」という言葉で仮に呼んだわけだけれども、同じ働きを、他の人は「心」と呼んだり、「真如」と呼んだり、「如来蔵」と呼んだり、「無」と呼んだりする場合もある。そして南方熊楠はこの二項対立関係が分化発生する動きを「曼荼羅」や「法身」「大日」と呼ぶ。
南方熊楠が二にして一、一にして二ということをどう考えようとしたかについては、小田龍哉氏の『ニニフニ 南方熊楠と土宜法龍の複数論理思考』から詳しく知ることができる。これについても下記の記事に書いているので参考になさってください。
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ちなみに、どうして同じ動きのことなのに、色々な呼び方があるのかと言えば、それはこれらの呼び名がことごとく「仮名(けみょう)」だからである。「霊性」や「法身大日」という言葉で呼ばれる何かは、実は言葉ではどうにも言い表すことができない事柄である。
なぜなら、言葉というものは根本的に分節システムだからである。
言葉は何らかのAと非A、Bと非B…などなど、いくつもの二項対立関係を重ね合わせていくことで織りなされる「分節システム」なのである。
分節システムの最小単位は下記のような具合の四項関係、二つの二項対立関係の重ね合わせでできている。
○ - ○
| × |
○ - ○
この四項関係いうことについては安藤礼二氏は『熊楠 生命と霊性』の前半で、熊楠の『燕石考』を分析しながら大きく論じられている。
それについては下記の記事で部分的に紹介したので参考にしてください。
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さて「霊性」であれ「空」であれ、それが「言葉」である以上、その言葉を使った瞬間に、それはこの四項関係(二つの二項対立関係の重畳)の中にひとつの項、ひとつの○として囚われてしまうのである。
霊性や空と言うことで二項対立関係が「ない」ところからの、二項対立関係の発生を考えようというのに、その考えるという営みを言葉によって進めようとした瞬間に、あっという間に出来合いの二項対立関係の中に引っ張り込まれ、閉じ込められる。
二項対立関係の発生を言葉でもって考えるとは、二項対立関係を複数組み合わせて織りなしたスクリーン状の平面に、より高次元の蠢く運動の影を映し出すようなことなのである。
そういうことで、ここではどんな言葉を使おうとも、結局それは「仮」なのである。二項対立関係の発生を表現する言葉として唯一正しいのはどれか、などということは考えようもない。
仮だと知りつつ、他に知らないから言葉で呼ぶ。そもそも「仮」と「本物」の区別もまたひとつの二項対立関係なのだということを忘れてはいけない。
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「それ」をどう呼ぶにせよ、一から発生する二・二を発生させる一の動き働きから、二項対立関係が始まる。
主観と客観、精神と物質、一と多、境界線が縦横にひかれた世界とひかれていない世界、生命と非生命、生と死、人間と動物、文明と自然、などなど、ことごとく二項対立関係は区別以前・分節以前から発生する。
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|
↓
○←→○
おもしろいのはこの二項対立の発生こそが、19世紀から20世紀にかけての科学的「進化論」と言語学の理論モデルの根幹に据えられたアルゴリズムだという点だ。
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生命システムの根幹には、生命と非生命を区別する分化の動き、二項対立関係を発生させる動きが動いている。
熊楠にも影響を与えたと考えられるエドワード・ドリンカー・コープの進化論、コープから直接影響を受けたアンリ・ベルクソンの『創造的進化』の議論は、進化ということを非生命と生命を区別する動き・物質と精神を区別する動き、すなわち二項対立関係を発生させる動きを思考しようとした試みとも読める。
「ベルクソンのいう「神」は、大拙のいう如来像が顕現したものとしての「法身」とも、熊楠のいう曼荼羅の中心に位置する粘菌としての「大日」とも比較することが可能であり、つまりは相互に読み替えていくことが可能である。それがもつ最大の能力こそが「産出」であり、つねに「産出」を続けることによって未知なるものへと変貌を遂げていく「力」そのものであり、原初の生命の飛躍としての「意識」であるもの。そこから無限の身体を生み出し、無限の精神を生み出す「神」にして「仏」、「粘菌」(大日=法身)にして「如来像」…。(安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.157)
この「産出」する動きは、微細な分化の動き、区別する動きが無数に連鎖し、重なり合い、組み合わさって、大きな動的構造を織りなしつつ変容させていく動きである。
生命が進化し、多様な形態をとるに至るプロセスは、生命と非生命を区別を区別する動きが動き出し、反復され、動きの反復を通じて物質の静的構造のパターンと物質の流れのパターンが発生し、それが定常的に維持再生産されつつ、少しづつパターンをずらし変化させていく壮大な「動き」として記述することもできる。
言語の意味分節システムも二項対立を発生させる動きに始まる
さらにさらに、言語システムの根幹もまた、xを非xと区別する分化の動き、二項対立関係を発生させる動きとして思考されうる。
言語をそのように二項対立関係の発生から捉えようとした思想として、安藤礼二氏が挙げているのは折口信夫と、井筒俊彦氏である。
「井筒はその折口から直接学び、大拙からはエラノス会議などで間接的な、しかし大きな影響を受けて、「東洋哲学」全体にわたる共時的構造を抽出しようと試みていた。[…]折口信夫の「産霊」と井筒俊彦の「存在」は、自らのなかから森羅万象あらゆるものを生み出すという点において等しい。同様に、折口も井筒も、そうした生命の発生と言語の発生を一つに重ね合わせていた。生命の母胎は同時に意味の母胎でもある。(安藤礼二『熊楠 生命と霊性』p.159)
言語の意味もまた「発生」するものである。
日常の感覚からすると、「りんご」という言葉の意味と「みかん」という言葉の意味は、それぞれかっちりと、最初から決まっているような感じがしないでもない。りんごといえば赤くて丸いあれのことだし、みかんといえば橙色でりんごに比べれば小ぶりの丸いあれである、という具合に。
しかし例えば「りんご」という言葉に「誘惑」という意味を込めたり、「みかん」にぎゅうぎゅうと箱状のもののなかに詰められている集団という意味を込めたりすることもできる。
言葉には、一方では日常的な「伝達」のための言葉がある。スーパーで「りんごありますか?」と聞くと「果物売り場の一番奥にあります」と答えが返ってくる、というような会話をする時の言葉である。
しかし言葉には別の姿がある。
それは日常の伝達のためのよくある使い方を超えて、ある言葉と他の言葉を普段あまりみんながやらないようなやり方で結びつける場合である。例えば
りんごは、私なのだ
と言ってみるとどうだろうか?
なにかとても深いことを言っているように見えなくもないのでは?
こういう言葉と言葉の置き換え関係を新たに作り出してみることで、新しい意味を発生させるということは、比喩表現や詩の言葉で行われることである。この話は下記の記事を参考にどうぞ。
折口信夫は『言語情調論』で、前者の伝達のための言葉を「間接性」の言語と呼び、後者の意味を発生させる言葉を「直接性」の言語と呼ぶ。
また井筒俊彦氏は、一義的な意味伝達のための言語のあり方を「デノテーション」、新たな意味を発生させる言語のあり方を「コノテーション」と呼び分けた。
伝達の道具という姿を演じているデノテーション的な言葉においては、意味分節の最小単位である4項関係は、かっちりと固まっている。
A - 非A
| |
B - 非B
ここでAに対する非A、Bに対する非Bは、はっきりと互いに区別され、なおかつ他のCやDなどなど何だかわからないものと入れ替わられてしまわないように、互いにかっちりと結びあっている。そしてAとB、非Aと非Bのあいだも、他と入れ替わらないよう、かっちりと結ばれている。
ここをかっちりとつなぐことで、「りんご」=「赤い」、「りんご」=「丸い」という類の大方どこでも通用する安定した伝達のための意味を生み出す。
◇
一方、意味を新たに発生させるコノテーション的な言葉においては、Aと非A、Bと非Bの区別が「あいまい」になったり、Aと非A、Bと非Bの結びつきが外れてしまったりする。そうしてAやBや非Aや非Bの項に他の何だかわからないCやDやXやYたちが入り込んで、頻繁に交代したりするようになる。
( ) - ( )
| × |
( ) - ( )
区別があいまいになったり、外れたりする、などというと、何だか悪いこと、ダメなこと、トラブルが発生したように思われるかもしれないけれども、大丈夫。安心していただいてよい。
なぜなら区別は、あらゆる区別すなわち二項対立関係は発生したものであるのだから。そして区別の発生以前には、区別はなかったのであるから。
そしてそもそも区別が「ある」とか「ない」とか、区別する「前」とか「後」とか、そういうことを区別すること自体が区別を発生させることである。
二項対立関係は、一つでありながら二つに分化しようとする動き・働きである。分化・発生の相にある二項対立関係においては、二項は一つでありながら二つであり、二つでありながら一つであり、しかしあくまでも二つであり、そして一つである。「二 即 一、一 即 二」さらには「二而不二」(二だけれども、二ではない(だからといって一でもない))
二項対立関係が発生する動きを見据えることで、私たちは世界の意味を新たにし、世界や自分自身、自分たちとは何者であるのかといったことの「分り方」を組み直す道へと誘われていくのである。
長くなってしまったので、今日はここまでに。