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縁起、レンマ、事事無礙で、表層と深層の意識の中間地帯を浮かび上がらせる -井筒俊彦「事事無礙・理理無礙」を読む(5)

引き続き、井筒俊彦氏の「事事無礙・理理無礙」を読む。

(前回の記事はこちら↓ですが、前回を読まなくても、今回だけでもお楽しみいただけると思います)

事事無礙・理理無礙」は井筒俊彦氏の著書『コスモスとアンチコスモス』に収められている。文庫本なので気軽に手に取ることもできる。

事事無礙とは、複数の事が、互いに同じではなく異なりながらも、妨げなくつながっている、ということである。このことを井筒氏が図に表したものが下記である。

AなりKなりというカタマリが、それぞれ何らかの名前を持った「事」であるが、よくみると、AやKには輪郭線が描かれていないことに注意していただきたい。

これはつまり、AなりKなりという「もの」が端的にあって後からそれらの間に関係が生じる(線で連結されていく)のではない、ということを意味している。話は逆で、まず端的に無数の線が走っており、そうした線の矢印が密に集まるところと、集まった矢印たちに縁取られるようにしてAなりKなりの「事」の輪郭が、実際にはそんなもの「ない」のだけれども、あたかもあるかのように浮かび上がってくる

そこでは個々の「事」は他とは異なるものとして互いに区別されながらも、しかしひとつにつながっている事になる。これが事事無礙である。

有名な仏教の「縁起」も、この事事無礙から解することができる。

縁起

先ほどの図にあるAやKといった矢印の集まった先に輪郭を縁取られている「事」たちは、無数の線が「」に織りなす「全体的相互関連性の故に」、他ではないそれとして「現成」するのだと、井筒氏は書かれている。Aなるものは、Bでもなく、Cでもない、他でもないAとして「現成」する。ここで全体の関連と個々の「事」との間には、次のような関係が考えられる。

ただ一つのものの存在にも、全宇宙が参与する。

井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.47

ここで全宇宙というのは、モノの集まりではなく、事を生み出す線たちが縺れ動くことである。

この全宇宙と、私たちがあれやこれやと分別する、「ただ一つのものの存在」とは不可分一体である。

参与

「ただ一つのもの」に全宇宙が「参与」している。この参与という言葉がおもしろい。

例えば、含まれているとか、つながっているとか、他の動詞でも表現できなくもないように思われるが、例えば「含む」だと、袋のようなものの中に、置物のようなものが入っているというものとモノの関係を連想させてしまうような気がするし、つながるもまた、それ自体として自性を持って存在するもの同士が、後からおまけ的にくっついた、というイメージを喚起するようにも思う。

その点で「参与」には、異なったまま一つになりつつ異なったままである、という感じがある。

あれこれのものたちが互いに別々のものとして並んでいるように私たちの心には見える”この”世界も”この”宇宙も、全宇宙的な「事の線」の絡み合う運動が見せる一瞬の姿である。

動いている事の線たちの網が、人間には、人間のには、特にその常識的感覚と伝達的意味の世界の中では、止まって見えるのである。

人間の感覚を変容させたり、意味分節の動きを変容させることで、人間の心を持ちながらも、事の線の網の動きを感じることができるようなできないような感じを覚えることもできる。そして、そこから日常にまた帰ってる。

この「心」の変容と回帰は、訓練して行うこともできるが、意図せず不意に訪れることもある。夢を見ることや、何かの弾みで意識が朦朧となること、身体の苦痛や、野生的な破壊力に触れること。そうしたところで、人間の心の重層性というか、心もまた動いていながら固まろうとする、という深層の無意識を醒めた意識を保ったまま覗き込むことになる。

この辺りの話については、同じ井筒氏の『意識と本質』の初めの方、サルトルの嘔吐やマラルメの詩の話に詳しいので、また別の機会に読んでみたいところである。


縁起と事事無礙

さて、この「事の線」たちの絡まり、「存在エネルギーの流動する方向線」がダイナミックの絡み合う網というかネットワークは、突き詰めれば時間的分節や空間的分節さえも超えて、全宇宙でつながっていることになる。

このつながりを「事無礙」の様相で眺めると、”理(無)からの事の「性起」”と見える。

またこの同じつながりを「事事無礙」の様相で眺めると、事と事とが「縁起」でつながっている、と見える。井筒氏はこのように書いている。

縁起というのは、縁起がいいとか悪いとかいうあの「縁起」であって、一見すると互いに何の関係もないようなもの同士まで、あらゆるものともの(事と事)が互いに結びつき、互いに異なりながらも一つにつながっているという話である。

ここで縁起のネットワークは、自性的実体性によって独立自存する「もの」が互いに二次的に影響を及ぼし合うという代物ではない。縁起は「事」同士を「事」つながったまま分けようとする動きが、人間の分別することを好んでやまない意識見せる人間用の姿なのである。

(縁起とは)自分だけでは存在し得ないものが、自分以外の一切のものに依りかかりながら、即ち、他の一切のものを「縁」として、存在世界に起こってくる、ということです。

井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.49

事事無礙の「事」たちは、他のものの「縁」(フチ)であったり、線の「結び目」であったりする。

要するに、現象的存在次元に成立する事物相互間の差異性、相異性(分別、意味分節、存在分節)を、その本来の「空」性の立場から見たものを「縁起」とするのです。 

井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.48

ロゴスとレンマ

このような華厳哲学の「縁起的思惟パターン」が「事物の生成現起を、原因・結果の関係で説明するアリストテレス的思惟パターンとは、全然その性質を異にするもの」であると井筒氏は指摘する。

この思惟形態(アリストテレス的思惟パターン)は一本線的な考え方です。これに反して華厳の「縁起」は、複線的。というより、限りなく重なり合い、かぎりなく錯綜する無数の線の相互連関的網目構造を考えるのです。

井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.51

後者の縁起の網目構造には「中心というものがない」と井筒氏は書いている。私たちの合理的な思考は、関係であるとか網目構造であるといった言葉からも、すぐに何か整然と分節され体系化され周縁から中心へと聳え立つ構造物の姿をイメージしてしまうが、そうなる前に踏みとどまるのである。

そんな無中心的純粋関連性の、力動的で遊動的な構造体として華厳は存在世界を見る。そして、そのような形で見られた存在世界の構造的特徴を「事事無礙」という言葉で記入し、存在テクスト化するのです。

井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.51

構造体は遊動的、動いているのである。全ての線が全ての線と結びついているが、その結びつき方は均質ではなく不均質であり、しかもその密度の偏りはあるところでは急激に、あるところでは緩やかに、変化し続けている。

しかし、一生命システムとしての人間とその心は、この留まる事なく遊動し続ける縁起のネットワークを直接感覚したり知覚したりする事はできない。あくまでも心に浮かぶあれこれに分節されたものたちの姿を通じて、そのものたちを「事事無礙」の「事」として見ることによって、縁起のネットワークの蠢きを感じ取るより他ない。事たちを分別する分節システムがその安定した姿の影で不意に魅せる揺らぎやざわめきを見逃さない知性によって、分節システム自体を発生させている事事無礙の縁起のネットワークの動きを、人間の心を以てして「見る」のである。

中沢新一氏の論じるレンマ的知性というのはこれである。

あらゆる「事」、Aでも、Bでも、Cでもなんでもが「いずれも、「空」の「有」的側面である絶対無分節者の分節的現起の形」であるという事になる。

空には「有」の側面と「無」の側面がある。
また空は無分節でありながら、分節した姿で私たちの心に現れる。
空は無分節でありながら、分節でもある。

「空」には、井筒氏が『意識の形而上学』で論じる「双面」性がある。

空が「有」と「無」、無分節と分節の双面を現す事態は「ABCは、いずれも、まったく同じ無限数の存在論的構成要素(a,b,c,d,e…)から成」ることであると井筒氏は書く。

存在を記号化し、ものを全て、記号的機能性において把握しようとする現代の記号学の立場で考えるなら、今ここで問題としている存在論的状況では、Aは「シニフィアン」(a,b,c,d,e…)はその「シニフィエ」ということになりましょう。

井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻

この場合のシニフィアンとシニフィエの関係は、「シニフィアン」Aー「シニフィエ」a(aだけで、b,c,d,e…は除く)というような、単純な一対一の記号構造ではない」ことに井筒氏は注意を促す。

意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)が「一対一」に切り詰められ固まった記号というのは、静的で、一義的な意味分節体系である。それは私たちの意識の表層に映る記号なるものの典型的な姿でもある。

これに対して「シニフィアン」Aに対するシニフィエが「(a,b,c,d,e…)」であると考えることによって、動的で多義的な意味分節システムを考えることができるようになる。

華厳的記号学ー仮にそのようなものがあるとしての話ですがーでは、記号化されたものの存在論的意味構造は、「シニフィアン」Aー「シニフィエ」(a,b,c,d,e…)という形を取る。しかも、「シニフィアン」は違っても、「シニフィエ」の方は、いつも同じ(a,b,c,d,e…)なのです。複合的「シニフィエ」の構成要素は、どの場合でも、まったく同じであるのに、「シニフィアン」はAであったり、Bであったり、Cであったりする。どうして、そんなことが起るのか。

井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.56

どうしてそんなことが。

その答えを解くために、井筒氏は「有力」と「無力」の対を用いる。

分節と無分節の対立関係と、有力と無力の対立関係を交差させる

ここで「有力」というのは「積極的、顕現的、自己主張的、支配的ということ」であり、これと対立する「無力」というのは「消極的、隠退的、自己否定的、被支配的であること」と井筒氏は書く。

有力 / 無力

この二項対立関係を、

積極 / 消極
顕現 / 隠退
自己主張/自己否定
支配的/被支配的

といった二項対立関係に重ねていくことで、その意味が輪郭を表し始める。

そして「有力」と「無力」の間には、

構成要素群のなかのどれか一つ(あるいは幾つか)が「有力」である時、残りの要素は「無力」の状態に引き落とされる。

井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.57

という関係がある。これを井筒氏は次のようにも敷衍する。

「有力」な要素だけが表に出て光を浴び、「無力」な要素は闇に隠れてしまう。

井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.57

私たちの日常の意識の表面には、存在エネルギーの線の錯綜(a,b,c,d,e…)のうち、「有力」な要素だけがもの=事として「現象」し「浮かび上がる」。その時「無力」な要素は私たちには意識されない。

有力は無力に対する有力であり、無力は有力に対する無力である。両項は互いに相手方ではないという資格においてのみ存在するという点で、関係概念である。

深層において動いているのはただひとつの(a,b,c,d,e…)であるが、その中で例えばaにあたるものだけを引っ張り出せば、他は全て背景化する。あるいは他の全てが背景化することでaのみが前面に迫り出してくる。

無分節が分節する、とはこういう事態である。

普通の人には「有力」な要素だけしか見えない。しかも、(a,b,c,d,e…)のうち、どれが「有力」の位置を占めるかは、場合場合で力動的に異なるのです。つまり「性起」の仕方、無分節者の自己分節の仕方、が場合場合で違う。

井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.57

絡まった網状のもののある1つの結び目を引っ張り上げると、その結び目の下に網の全体、他の無数の結び目たちのかたまりがぶら下る。この引っ張り上げられた結び目が「有力」で、その下に垂れ下がっている全体が「無力」である。

ここで目に見えるのが引っ張り上げられた1つの結び目だけであったとしても、それは他の全てと繋がっている。ここで結び目としての「事」たちは互いに無礙、妨げあうことなく繋がっている「事事無礙」だという話になる。

ここに続いて井筒氏は次のように書かれている。

しかし「無力」な要素が見えないといっても、それは我々普通の人間の場合のことで、仏教の語る仏や菩薩たち[…]には、ものの「無力」的側面も、「有力」的側面も、同時に見える。[…]このような状態で見られた存在世界の風景を叙して、華厳は、あらゆるものが深い三昧のうちにある、というのであります。

井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.58

人間の心が、「有力」と「無力」の分節をもまた区切り出す。「有力」であるとか「無力」であるとかいう区別もまた、人間にとっての話である。

人間は同時に全てを見ることはできず、注意を注ぐ部分と注がない部分とを身体レベルから言語的シンボルのレベルに至るまで、多重に区別していくことで、意識を立ち上げている。

もの(事)はない??

こうして分節を通じて発生してくるさまざまな二項対立関係の中にある項たちは、すべて仮で、動いており、自性はない

ここで注意しておきたい点は、「ない」のは「自性」であって、「もの(事)」がないのではない

「もの(事)」は「ある」!

ただし、ダイナミックに動く関係として「ある」。止まって「ある」のではなく動いて「ある」

ここまでの話では、次のような二項対立関係が問題になっていた。

もの/こと(事)
実体/関係
静的/動的
止まる/動く
固定的存在/生成

ここで気をつけるべき事は、上に示す対立関係の側の項たちが偽物で、右側の方こそが本物なのだとか、左側は「ない」もので、右側だけが「ある」のだなどとは考えないことである。

もの/こと(事)
実体/関係
静的/動的
止まる/動く
固定的存在/生成
||    ||
偽物 / 本物
?!
ない / ある
?!

ない/ある」とか「偽物/本物」とかいう話も、これもまた二項対立関係である。即ち、無分節の分節、有力と無力の区別であり、分節して二項対立関係を作り出してはそれらを重ね合わせていこうとする人間の心の作用が言う話に過ぎない。

つまり側の項たち、静的固定的に決定済みの実体としてそれ自体において存在すると思われる「もの」たちだけ「本当にある」と思い込むのも、逆に右側の項たちだけを「本当にある」と思い込むのも、どちらも表層意識の表面の話である。

先ほどの「ものの「無力」的側面も、「有力」的側面も、同時に見える」境地からすれば、ものもことも、実体も関係も、どちらも「ある」し、どちらも「本物」である。ただし、そのあり方が違うのである。

もの/こと(事)
実体/関係
静的/動的
固定的存在/生成
||                  ||
表層意識的
にはある/表層意識的にはない
・  ・
・  ・
深層意識的には”固まったものとしては”ない/深層意識的にはある

言語を、固着した分節体系としてではなく、遊動する分節システムとして動かそうという時には、あるとかないとかいう極めて基本的な言葉でさえも、あるはないであり、ないはあるである、という二重の相のものとに常に置いておかなければならない。

表層意識にとって当たり前のような言葉のペア、「ある」とか「ない」とかの分節を、逆にしては、また元の向きに戻すことを繰り返す。それによって意識の深層における分節の発生、意味分節の動きの自在な躍動のを、あくまでも体系として固まった姿を保ち続ける表層の記号たちの体系の隙間に、ちらりと垣間みせるのである。

そういう言葉のあり方が息づいているのが、詩的言語であり、神話的思考の言葉であり、「アニミズム」を言語化する物語などである。

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