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動いているのに止まっているように見せる技術 -井筒俊彦「事事無礙・理理無礙」を読む(4)

井筒俊彦氏の「事事無礙・理理無礙」を引き続き読む。

(前回の記事はこちら↓ですが、前回を読んでいなくても、今回だけでお楽しみいただけます)

事事無礙・理理無礙」は井筒俊彦氏の著書『コスモスとアンチコスモス』に収められている。

事事無礙、事と事が無礙であるとは、複数の事と事が、互いに同じではなく異なりながらも、しかし同時に無碍に妨げなくつながっている、ということである。複数の「事」は、互いに異なりながらも同じであり、分かれていながらつながっている

事の線、線としての事

ここで「事」とはどういうことか。

井筒氏によれば「事」とは「第一次的に」は、事物相互間を分別する存在論的境界線」によって「互いに区別されたもの」である。

ここで「事」は孤立独立する「もの」ではなく「網の結び目」のようであると井筒氏は書く。

存在は相互関連性そのものなのです根源的に無「自性」である一切の事物の存在は、相互関連的でしかあり得ない[…]全体的関連性の網が先ずあって、その関係的全体構造のなかで、はじめてAはAであり、BはBであり、AとBとは個的に関係し合うということが起こるのです。「自性」のないAが、それだけで、独立してAであることはできません。

井筒俊彦著「事事無礙・理理無礙」,全集第九巻,p.45

「事」同士の差異は、固着した意味分節体系である表層意識にとっては孤立し静止した「もの」の姿で表れる。が、しかし、「事」たちは孤立しておらず静止もしていない関係のである。このことを表したのが下記の図である。

AもBもCも、すべての「事」は、無数の矢印付きの線(存在エネルギーの方向性)の結び目である。

この図では、幾つもの矢印付きの線が走っており、それらの線の矢印が集まったところに、ちょうど網の結目ネットワーク構造のハブのようなものとしてのA、B、Cなどの「事」が結実する。「事」は、互いに異なりながらも同じであり、分かれていながらつながっている

この際、AなりKなりというカタマリが先ずあってそこに後から線が連結されていくのではない

話の順序は逆で、まず無数の線が走っており、そうした線の矢印が密に集まるところと、集まらないところの差異が生じ(これが「分別する」ということ)、集まった矢印たちに縁取られるようにしてAなりKなりの「事」の輪郭が浮かび上がってくる

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