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双面的思惟形態あるいは野生の思考へ -井筒俊彦『意識の形而上学』を読む

前にこちらのnoteなどでもご紹介したことのある井筒俊彦氏の『意識の形而上学 『大乗起信論』の哲学』を改めて読んでみる。

この本一冊を通じて展開されるのは「双面的」な思考である。

井筒俊彦氏は『大乗起信論』のテキストを読み、そこから双面的な思惟形態を浮かび上がらせていく。あるいは『大乗起信論』のテキストがそれを創造的に読む井筒俊彦氏の思考と重なり合うところに、その思惟の形態が双面性を特長とするものとしてうかびあがる。

双面的思惟形態

ここで「双面的(そうめんてき)」な思惟の形態とはどういうことだろうか?

それを知るために、まず思惟とはどういうことかという話から始めよう。

双面的な思惟ということが問われるのは、それに対立して双面的ではない思惟というものがあるからである。

双面的であろうとなかろうと、私たちは何かを思惟するときに、AはBだ、BはCだ、という具合に言葉を言葉に置き換えるということをやっている

りんごは果物だ。リスは動物だ。ナスは植物だ。といった具合である。

この時、このAとかBとかCとか、りんごとかリスとかナスだとかいうものは、すべて言葉である。

言葉というものは言葉同士で対立関係をなす。そしてある言葉Aと他の言葉Bとの対立関係と、ある言葉Cと他の言葉Dとの対立関係、この二つの対立関係が重なり合うところで、意味するという現象が動き出す。

この話はこちら↓のnoteに詳しく書いてありますのでご参考にどうぞ。

意味するとは、まず(1)区別をすること、そして(2)区別される二つの事柄Aと非Aを対立関係置くこと(対置すること)、そして(3)対立関係を複数用意した上で、複数の対立関係同士を重ね合わせること、である。

そうすると、こういう具合の関係が出来上がる↓

A 対 非A
 ‖       ‖
X 対 非X

この区別をするということを「分節すること(分節化)」と言い換えてもいい。また互いに区別されつ項の対立関係をいくつも重ねて出来上がるシステムを意味分節体系と言い換えることもできる。この分節化、意味分節体系の発生こそ、井筒俊彦氏がそこに思考の根源を探求し続けたダイナミックなプロセスである。

分節化する(分ける)動きが絶えず無数に蠢き、そしてその蠢きの反復的パターンから分節体系が発生していく。

井筒俊彦氏は『大乗起信論』に記された阿頼耶識ということを、そのような分節化と、分節体系の発生の動的なフィールドとして読む。

阿頼耶識・言語アラヤ織

私たち一人ひとりにおける意味分節体系は、言語アラヤ織から発生し、自己展開していく。

意味分節体系は、対立関係に置かれた二つの項のペアを最小構成単位とする。

この構成単位は動いており、静的で固定的で即自的な本質によって存在する不変不動の個物ではない。

ある二項対立関係がある二項対立関係として在るのは、初めからそう在るからではなく、まったく二次的に、後から、えいやと未分化な流れを二つに区切るからである。

区切る、といっても、そこになにか区切る操作をする主体や担い手が存在するわけではない。この区切ることは、二項対立以前の未分化な流れそれ自体の動きであり、未分化な流れの流れ方のムラのようなものである。

未分化な流れは未分化であり区別以前であるが、決して均質ではなく、静かに止まっているわけでもない。逆に、未分化な流れはまったく不均質で、細部に至るまで激しく蠢いている。この不均質な蠢きがあまりにもダイナミックなために、そこに安定的に一貫して静かに存在する何かを項として区切り出すことができないということである。

未分化な流れは、動と静の区別以前でもあり、均質と不均質の区別以前でもある。

さらに言えば、ここでいう未分化は、「分化された状態」と区別され対立するものとしての"未"分化ではない。分化と未分化の区別以前なのである。

分化された状態をコスモス(秩序)と呼ぶならば、"未"分化はカオスということになるが、いま問題になっている未分化な流れはカオスとコスモスの区別以前である。

さらにさらに、いま問題になっている未分化な流れは、カオスからコスモスが発生するといった類の順序関係、前と後、時間的な前後と空間的な前後の区別以前である。

あるいは「以前」という言葉ではダメかもしれない。以前という言葉を使った瞬間に、それは「以後」という言葉とペアになって意味を分節してしまうからだ。

そしてそれをいうなら「未」という言葉もダメかもしれない。未もまた、いまだ何々ならずということで、しばらく待っていると後からどうにかなるかのような感じを分節化してしまう。

それならば区別以前や未分化という言い方をやめて、混沌とか、真如とか、無とか、道とか、空とか、他の言葉を用いれば良いかと言えばそう簡単な差し替えでは済まない。

言葉で、言語で、ロジカルに考えようとする時点で、すでにその思考の技術は区別のシステムの内部で構成されており、区別以前の未分化な流れが語と語の排他的対立関係とその対立関係の重ね合わせとしての意味分節体系に投げかける影を観測する以外にないという状態なのだ。

そういう意味では、以前や未がダメで、他ならよい、という話にはならない。いってみれば全部ダメなのであり、しかしそれでも言葉で思考したいということであれば全部OKなのである。

井筒俊彦氏の「双面的思惟形態」を言い換えると、この「全部ダメで、全部OK」になるかもしれない。

ここで思考は、分節システムとしての言葉という網目状の構造に、分節「以前」、「未」分節の影のようなものを浮かび上がらせるという、たいへんに難しいことを行おうとしているのである。

未分節、分節以前、区別以前を、区別のシステムである言語の内部に複写することは極めて困難、あるいは不可能である。しかしそうだからといってできません、やめましょう、というのではなく、あえて言葉で、言葉の外を思考する。これは極めて面白い言語の冒険なのである。

これは井筒俊彦氏の別の著書『スーフィズムと老荘思想』では、「絶対者の自己顕現」として論じられることでもある。

絶対者の自己顕現というのは、煎じ詰めると区別すること、差異を生じることである(雑に煎じ詰めてもうしわけない)。ただし、この区別すること、差異化することは、ひとつのものを二つに分けて、バラバラに引き離して無縁にするということではない

この区別するということは、同時に、区別され差異化された二者の間を”一に非ず二に非ず”という具合でひとつに結び続けることでもある。

あるAがあるAであるのは、それが即自的にあるAであるからではなく非Aではないからである。つまりあるAが問題になるのは、あくまでも非Aとの対立関係においてである。Aは非Aと完全に分離して無縁になってしまってはAとして分節化されつづけることもなくなってしまう。非AとペアにならないAはない。

こうした関係にある区別、あるAと非Aとの区別には、例えばつぎのような組み合わせがある。

「つくること」「つくられたもの」の区別
創造者と被造物の区別といってもいい。

の区別
動的であること静的であることの区別
そして、同じであること異なっていることとの区別

区別以前と区別は一つのことでありながら二つである。

未分化と分化は一つのことでありながら二つである。

前後関係も順序関係も、互いに他方に対する一方であるような二項からなる関係は、二であることで同時に一である。

一である姿と、二である姿、どちらが「ホントウ」かなどと問うてはいけない。嘘と本当、真と偽、まことといつわりの区別もまた、互いに他方に対する一方であるような二項からなる関係であり、つまり二であることが一であることであり、一であることが二である。

私たちはどうしても、ある言葉を他の言葉に置き換えていく歩みを重ねる都度、置き換え後の言葉の方を「より本当、より正しい、真」の方に分類したくなってしまうようであるが、これもまたある二項対立関係を真偽という別の二項対立関係に重ね合わせているということで、言語の意味分節体系の内部における手続きを繰り返していることに他ならない。

ニは一であり一は二であるなどというとき、言葉でもって、言葉の底で発生する分化の動きを観測するという、なかなか難しいことをやっているのである。そうして綴られた言葉を、ある人が後に読むと、次のように見える。

「思考展開の筋道は、至るところ、二岐に分かれ、二つの意味志向性の極のあいだを、思惟は微妙な振幅を描きながら進んでいく。」(『意識の形而上学』p.15)

大乗起信論では、区別以前、未分化を「真如(心真如)」という言葉で記すが、そう記した途端に、後からこれを読む者たちが真如と非ー真如の対立ということを考えてしまうリスクが生じる。

そこのとを見越して、「真如(心真如)」という一つの言葉の意味を二つに保つように言い換えを組んでいく。

即ち、真如は「第一義的には、無限宇宙に充溢する存在エネルギー、存在発現力、の無分割・不可分の全一態であって、本源的には絶対の「無」であり「空」(非顕現)である。…しかし、また逆に、「真如」以外には、世に一物も存在しない。「真如」は、およそ存在する事々物々、一切の事物の本体であって…」(『意識の形而上学』p.16)

ここで未分化、区別以前の「真如」は、無でありながら有であり、煩悩でありながら菩提、マイナスでありながらプラスであり、不可分でありながら分かれている分かれながら不可分である。

この常識的な意味の世界では互いに対立し相容れないはずの両極が、二つでありながら一つであり、一つでありながらあくまでも二つであるという事態を言葉にしようとすると、「真如」の場合のようにひとつの語が"双面"性をもつということになる。

ここまでしないと、言葉は思考の底を掘削し続ける手段にはならない、ということなのかもしれない。

「二つの相反する意味志向性の対立が、「真如」をめぐる思惟をして、逆方向に向かう二つの力の葛藤のダイナミックな磁場たらしめずにはおかないのだ。」(p.18)

思惟、即ち、言葉でもって思考するということは、「AはBです、以上です」とやるような、何かに何かのラベルを貼り付けるようなことではない。問題はAと非Aは区別されながらも区別されず、しかし区別されるということであり、Bと非Bも区別されながら区別されず、しかし区別されるということであり、AとBは異なりながらも同じであり、同じでありながら異なる、ということである。

言葉で思考するということは、醒めた意識を、そういういくつもの「逆方向に向かう二つの力」が無数に重なり合い絡み合い葛藤するフィールドのダイナミックな動きと区別できないようなものにすることである。それが「双面的」に思惟するということである。

未分化の一から区別された二が発生し、同時に二が一へと溶けていく絶え間ない運動の場のことを、「アラヤ織(言語アラヤ織)」と呼ぶ。

「真如」が非現実的・「無」的次元から、いままさに現象的・「有」的次元に転換し、…「無」の境地を離れて、これから百花繚乱たる経験的事物事象(=意味分節体、存在分節体)の形に乱れ散ろうとする境位、それが『起信論』の説く「アラヤ織」だ。(『意識の形而上学』p.19)

こういうアラヤ織はこれもまた双面的である。

アラヤ織は一方では「「真如」の限りない自己開顕の始点」であり、他方では「限りない妄想現出の源泉」である。一つのアラヤ織が二つの側面で顕れる。この二つの面は「一に非ず異に非ず」である(p.20)。

という具合の動的なフィールドから始まり、そしていつも常にそこから始まり続けているはずの私たちの言葉が、なぜその常識的な姿においてはどうにも動かしようがないほどに凝り固まった対立関係たちのバベルの塔に見えるのだろうか。

未分化から最初に発生する区別が反復され、この反復運動が一貫して永続的に存在する事物という影を浮かび上がらせる。

発生すること、区別することという動的な姿を覆い隠すほどまでに増殖した区別する動きの痕跡は、それが動きの痕跡であるということを忘れさせてしまうほどに、いつも同じような影を、濃淡の差異のパターンを、区切り出し浮かび上がらせ続ける。

区別は人間にとって、いや、生命にとって、切実なのだ。

「すべて一ですから」では済まない。

ある魚は、泥の中を泳いでいる時は「食べ物」ではないが、うまく捌かれて火を通されて皿に盛られている間は「食べ物」であり、しかし一口人間の口の中で咀嚼され嚥下されてしまえば、もう「食べ物」ではない(一度お腹の中にはいった「食べ物」を、再度皿に出して食べられるだろうか?)。

たとえばあるひとつのタンパク質やアミノ酸を観察すれば、生きて泳いでいた時から、皿に盛られた時、そして人間の喉に引っかかっているときも、一貫して「同じ」、同一のモノだと言えなくもない。

しかしそうだからといって、生きて泳いでいる魚と、皿に盛られた料理と、食道に引っかかっているなにかを私たちは区別したいのである。

集合的言語アラヤ織

そして特に食べ物の例だとわかりやすいのだけれども、何が食べもので何が食べ物ではないかという区別は、文化によって大きく異なる

区別をどのように行うかは集団的で文化的、個々人の一生を超えた歴史的な無数の分節化操作の積み重ねによって、営々とその体系を構築されてきたのである。

ある文化の中に、ある人々の間に産まれた私たちは、物心がつくまでの数年間に様々な「区別」を徹底的に書き込まれるのである。

私たちは、周囲の大人たち、周囲の他の子供たちが喋っているようにしゃべり、食べているように食べるようになる。そうするうちにある文化において集団的に反復されてきた区別の仕方を、それとは知らずに引き継ぎ、反復するようになる。

ここにアラヤ織の「集団」的性格が関わる。

私たちの「アラヤ織」はひとりひとりの人体の中に格納された何かの器官やモジュールのようなものではなく、外に開かれた、というか外であると同時に内であるような、内外の区別以前の無数の微細な流路の網である。その流路網としてのアラヤ織は他の人のアラヤ織と繋がっている。

繋がっている、というと、元々予め別々に存在する二人の人間があとから繋がっているようなニュアンスにもなるがそうではない。繋がっているというか、あるのはただ微細な流路の巨大な網(ネットワーク)であり、その中にいくつもの相対的に網のもつれの度合いが高い場所が出来上がってくる。そのもつれた玉が、あるひとりの人のアラヤ織として他から区別することもできる何かである

アラヤ織のこうした姿を、井筒氏は「意識の超個的性格」と呼ぶ。私たち一人一人の意識がそこから発生してくる集合的アラヤ織は「無数の言語的分節単位の、無数の意味カルマの体積の超個的聯合体系」である。

全ての形相的意味分節単位は、それぞれ存在カテゴリーであり、存在元型であって、「アラヤ織」はそれら存在カテゴリー群の網羅的・全一的網目構造なのである。(『意識の形而上学』p.97)

私たちがあるとないを区別できるあらゆる事物は、こうした集合的アラヤ織の網目構造から浮かび上がる。

現象的存在分節の根源的形態が、この先験的意味分節システムによって決定されているのだ。現象的「有」の世界の一切は、この原型的意味分節の網目を透過することによって次々に型どられていく。(『意識の形而上学』p.97)

まとめ

そういうわけで、もし私たち一人一人が、人生のふとした瞬間に、知らず知らずのうちに伝承されてしまった集合的言語アラヤ織の意味分節体系に違和感を覚えてしまった時などには分節体系をその発生の瞬間にまで送り返す双面的な思考こそが、言語アーラヤ式の分節システムを組み替え、世界を、自己を、他者たちを、まったく新しい姿に分節し、意味を与え、共同体の可能性を模索し続ける道を開くのである。

それは極めて困難な道のように見えるけれども、実は私たちが日々何も考えずに行っている無数の分節化の手続きと比べて、そう大差はないのである。

ただ一点、分節システムを双面的に動かせるか、動かせないか、そこだけなのである。

………

ところで、古来の人類、私たちの祖先は、分節システムを双面的に動かすスキルの獲得を、個人が共同体の中で成人としての資格を得るための重要な要件と見做していた可能性もある。

特に人類がまだ自然の中に完全に飲み込まれていた狩猟と採集の時代、流動し、変化しつづける「自然」の中を少人数のメンバーで泳ぎ渡るにあたっては、硬直化した分節体系(言語文化)をもってしては太刀打ちできなかっただろう。リアルタイムで動的に変化する環境に応答しなければならない状況というのは「わからない(分けられない、分節できない)」ことばかりが続出する。

そんなとき、柔軟に現実認識を変容させることができる動的な分節体系に基づく思考(双面的な思考)が「わからないけど、なんとなくわかるような感じがする」というレベルで目の前の謎に対処する力を発揮するはずだ。

ところがそれが人間が人工空間に集住するようになってくると、硬直化した分節体系でもって思考をショートカットするようになってしまう。世界はすべて「わかる」はずだ、という段階に入るわけである。

この辺りの話は、縄文と弥生の連続性と差異というテーマにも関連があるところで、こちら↓のnoteでも触れているのでご参考にどうぞ。

関連note

『意識の形而上学』関連noteはこちら


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