見出し画像

わたしたちは未来のデカルトを待っている。わたしたちはまだ本当のことを 何も知らない。

「計算する生命」、なんて素晴らしいタイトルなんだ。森田真生さんの本はタイトルが素敵だ。透明性としなやかさと品の良さ。彼の最も優れた点がここに表われている。中身を読む前からタイトルだけで私の中でイメージと言葉が騒々しく色めき立つ。

0と1のデジタル・データがブール代数に従って目まぐるしく点滅し、血と体液に浸された内臓の柔らかな膜の中の神経が張り巡らせた天網のようなAND回路とOR回路とXOR回路とNOT回路の演算ネットワークの中を駆け巡る。柔らかでウエットな生命の律動としての計算(Calculation)。その生命の律動という計算によって数が生まれ言語が生まれる。計算する生命が知性として出現する。生命が知性として光り輝き、知性を持つ身体が生物の殻を脱ぎ捨て躍動する。目が開かれ体が起き上がり立ち上がる。手には燃えさかる松明が握られ腕が高く掲げられ、前に踏み出す。叫ぶ。「われこそは、計算する生命なり、われこそは、知性を持つ者なり」(ここでリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」の音を入れる、はじめは静かにやがて耳をつんざくように高鳴る、パン~~パン~~パン~~ドンカンドンカンドンカン、カメラ! 回って回って、スピンショット!、、、炎の周りを回れ回れ、、、は~い、これで一本、映画撮れます!)

この本は「数学する身体」に続く森田真生さんの思索の軌跡を記録したものだ。(当然、私はこの「数学する身体」も読んでいる。荒川修作がでてくる数学の本!)森田さん自身の言葉を引用すれば、前作が〈心と身体と数学〉をキーワードとした思考であったが、今回のこの本のキーワードは〈言語と生命と計算〉となる。足が震えるくらい野心的な試みだ。このキーワードだけで全宇宙史、全生命史、全人類史が書けてしまうんじゃないかとさえ思えてくる。いやはや、おそろしく壮大で深遠な試みだ。

(1)「計算する生命」が辿り着いた終着点とは?

それでこの本は何処まで辿り着いたのか? その終着点は?

う~~~ん、それがねえ、、、、、困ったね。言っちゃっていいものかどうか。(私は基本的には森田さんの本が好きなんだ。)もう言っちゃうけど、残念ながら、終着点はロドニー・ブルックスなのだ。この本を手にして読もうとした方はブルックスのその向こう側、少なくともブルックスを超えた何かしらの概念なりテーゼなり思想なりを期待していた人だと私は勝手に想像するのだが、その願望は叶えられない。残念だけどね。凄く。私も期待が裏切られた(!?)〈言語と生命と計算〉というキーワードで書かれた本の結末がこれなのか? と怒ってしまう人さえいるかもしれないよね。「何だよ、ブルックスの嘆きで終わりかよ」って。特に終章の「計算と生命の雑種(ハイブリッド)」に至っては良くて未来への警鐘、悪くて御説教じゃないかと思うのよ。森田さんの憂いを茶化すつもりは毛頭ないけれど。モンティ・パイソンの「哲学者サッカー」の哲学者像の古めかしさには失笑してしまう。漫画だね。うん、この本の探求は第四章の「計算する生命」で終わってしまっている。森田さんの探求の旅はここまでなんだ。悲しいことに。(私は「人工生命」って言葉はもう遥か昔に死語になっていたと思っていたけれど、まだ使っている人いるんだ、学者はたいへんだ。「人工生命」という言葉はその意味はともかくコピーとしての役割は終わっていると思う。「人工生命」がこの本の終わりにやってくるので、その内容は推して知るべしだったのかもしれない。)

(括弧開く。それから、ちょっと厳しいこと言うようだけど。ちょっとだけ、厳しいことを。だからここは括弧付きなんだけど。えええと、、、あのですね、ちょっと、この本の帯のコピーは広告とはいえ行き過ぎと思いますよ、、、「生命の本質に迫る画期的論考」って、、、ほんとうにそんなことおもっているわけないですよね? こころがいたみませんか? いや、まてよ、あれ、そっか、この本は新しい概念を期待するもんじゃなくて、地球のこれからを憂う問題意識のある人が読む読み物だったのかも。勘違いしているのは私の方なんだ。読む人によってはとても爽快な気持ちのいい読み物なんだね。探求ではなく、読み物とするならば・・・読み物・・・それは或る意味、最低な言い方だと私は思うのだけれども。括弧閉じる。)

「現実のロボットにとっては、ドアノブを開けることさえ困難だと指摘している。もし、「人間を超えるロボット」が恐ろしいなら、念のため「ドアを閉めて」おけばいいと彼らは皮肉を込めて書く。」(第四章 182ページ)

この話、ブルックスが推薦文を寄せている「AIを再起動させる「Rebooting AI 2019」という本の中の記述だそうだけれど、公開されている技術とそうでない技術が混ざって混乱しているんじゃないかな。少し前まではそうだったけど今はそうじゃないと私は思う。今はドアノブをドアノブとして抽出して認識できる。その技術は公開されていないかもしれないけど。(あのね、本当の最先端のテクノロジーは論文にも学会にもメディアにも展示会にも動画にも本にも出てこないの。もちろんインターネットにも)

「go with the flow (流れに寄り添え)」が研究者たちの合言葉になっていた。(第四章 191ページ)

これ簡単に言えば、「袋小路に嵌まっちゃった」ということ。「もはや手は尽くされた。自分たちはこれから何をどうしたらいいのか、わからない」という悲しい結末のお話。(流れに寄り添え)、何だか悟っちゃったみたいなセリフだけれども・・・。

「私たちはこれからも新たな概念を生み、そのたびに自己像を更新していくだろう。あらかじめ決められた規則へと自分を閉じ込めるのではなく、まだ見ぬ不確実な未来へと自分を投げ出していくように、計算と仮説形成を続けていくだろう。」(第四章 192ページ)

あああ、、、これって誰に向かって言っているんだろう? わたしたちって、誰? 「私たち」の中に、「私」を入れないで下さいね。(悪いけどさあ、私、全然、行き詰まってなんかいないから。

(2)森田真生さんは物事を優しく平明に説明する人

えっと、えっと、森田真生さんは思想家でも哲学者でも数学者でも科学者でも技術者でも研究者でもないの。森田さんは過去の既存の出来事や知識の本質を平明な言葉で分かりやすく話し伝える、言わば、知識の解説者であり、知識の伝道者であり、知識を教える教師なんだと思うのよ、私は。これ、森田さんを決して貶めている訳でも侮辱して言っているんじゃないよ。本当に。これは誤解しないでほしいのだけど。第一章から第四章の途中までの森田さんの解説の素晴らしさは他の誰も達成したことのないものだと、私ははっきりと断言するよ。

「わかる」と「操る」から始まり、「不可解な訪問」と題された虚数を巡る話、意味が分かることと規則に従って記号を操作することの関係性。リーマンの数学における概念に根ざした数学的思考。フレーゲによって開かれた概念から判断へという通路を逆転させた、判断の分析から概念へと向かう通路。フレーゲの人工言語の夢とウィトゲンシュタインの私的言語。そして、「計算から生命」まで。ここまでこのテーマで本質を簡潔に整理し解説した平明な文章は、私は他に知らない。うん、これだけでこの本は素晴らしい本だと言えるよ。お金をだして買って時間をかけて読むに値する本だよ。(ここゴチック体)

物事の本質を平明に説明するというのは、特別な才能が必要なものなんだ。「物事を平明に説明する」ってことがこの国では軽んじられ誤解されているけれども、それは才能が必要な極めて難しいことなんだ。「平明に」ということは「骨抜きにする」ことでもなければ「単純化する」ことなんかじゃない。その本質を本質のまま自分の言葉で表現し直すことだ。普通の人はそれが出来ない。何とか本質を理解するところまでは出来ても、それを自分の言葉で言い直すことまでは出来ない。そして、また、自分の知識と経験を他者に脅かされることを恐れ、難しさと言う鎧で自分を防御している人にも、それはできない。(名指しするつもりはないけれど、実に多くの人たちがそうだ。やっと苦労して手に入れたこの知識を他人になんかに簡単に理解されてたまるものかとみんな必死なんだ。)

森田真生さんは、そうした意味において特別な人なんだと思う。しかし、新しい概念を生み出す人じゃなかった。少なくとも、この本では森田さんは新しい概念を提示していない。ブルックスの先の概念がこの本には存在していない。この先の森田さんがどうなのかはわからないけれども。

(3)わたしたちはまだ本当のことを何も知らない。わたしたちは未来のデカルトを待っている。21世紀の電子計算機は、100世紀のトークンにしか過ぎない。

さて本記事をこれで終わりにしようと思うけど、実はこの本は続きがあるんだと私は思っている。続きというのは、この本を一旦最終章まで読んで、その後にもう一度、始めから読まなければならないということだ。つまり、この本は最終章が本当の最終章ではなく、振り出しに戻って、そこから始めることを読む人に求める本なのだ、と私は思う。現代を「壮大な計算の成立の歴史」の終わりに置くのではなく、その始まりに現代を置いて、この本を再度読み直すこと。それがこの本の「正しい読み方」だと、私は思う。現代から始まる「壮大な計算の成立の歴史」を夢想すること。それがこの本が私に示したものだ。

私が言いたいことは、もう一度「計算」という人間の営みを始めから考え直す必要があるということだ。電子計算機という装置を、前8000年から前3000年に多数出土したトークンとしてもう一度見直すという話だ。21世紀の電子計算機は、100世紀のトークンにしか過ぎないという話なんだ。静かに想像力を使って100世紀を想像してほしい。21世紀の最高の科学技術がトークンの世界を。

いいかい!!! わたしたちはまだ本当のことを何も知らないんだ。言語のことも、生命のことも、計算のことも。知っていることはまだほんの少しのことなんだ。我々の未来には、「未来の算用数字が記号の表記法が数直線が虚数が複素数がユークリッドがデカルトがリーマンがカントがフレーゲが人工言語がラッセルがウィトゲンシュタインがチューリングが人工知能がブルックス」が存在しているということなんだ。物から記号へ、言語から記号へ、記号から表記法へ、図から記号へ、図から方程式へ、記号から記号操作へ、直観から概念へ、概念から論理へ、論理から論理回路へ、記号操作から論理回路駆動へ、論理回路駆動から身体へ、身体から生命へ、計算から生命へ。次々とその姿を変貌させる数学(計算)。それはこれからも続く。

わたしたちは未来のデカルトを待っているんだ。わたしたちの未来には未来のデカルトがいるのだ。わたしたちが知っている数学は、未知の未来の算用数字と記号表記法によって一切が書き換えられてしまうことになるのかもしれない。未来の数学が表記された記号群は鳥のように蝶のように、飛翔しているのかもしれない。未来の数学は宙を浮遊する物質で構成された激しく動く機械のようなものとして、その姿を現わしているのかもしれない。(泥でできたトークンを使って計算していたわたしたちの祖先が、現代にタイム・スリップし黒い箱が整然と並んだスーパー・コンピュータを前にした時ように)わたしたちの数学は泥で作られたトークンがほんの少しだけ進化しただけのものなのだ。わたしたちの知っている言語さえも生命さえも全く異なった形態と形式になっているのかもしれない。

一回、全部、頭の中を空っぽにして、森田真生さんが丁寧に平明に本質的に解説してくれた「計算」という人間の営みを、無垢の目で見直す必要があるのではないだろうか。そこに、「袋小路」の脱出口の手掛かりが見つかるかもしれない(よっと)というところで、はい、本日のお話は終わりんです。(えっとね、、、この話は続きがありんすよ、、、、まだまだ、ず~~とず~~~と先がありんすよ、、、、計算の新しい概念についてだって、未来の数学についてだって、何も今回は書いてないしね、うん、スティーヴン・スピルバーグの映画「AI」みたいにね、後半がこれまた、、、あれなんだから、、、)は~い。ではまた。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?