鬱って何

空は今日も曇っている。

冷たく乾いた空気が、心を冷やす。

こんな暗い日記を公表して需要はあるのだろうか。自分の記録として書いているとはいえ、公開するような文じゃないんじゃないか。なんて、公開ボタンを押すのを躊躇う。細かいことを気にしてばかり。過去の日記を読み返すと、言葉が二転三転しては落ち込み、鬱のループから抜け出ていない。何かを決心したように書いていても、気持ちが固まっていない。少しは変化しなさいよ、と自分に呆れてしまう。


ただ、気持ちの変化が怖いのには理由がある。

一つは、少し明るい気持ちになってもその反動で翌日には深い落ち込みが待っていること。その落ち込みが怖くて、明るい気持ちを持たないようにしている気がする。本当に立ち直ったと思ってもすぐに崩れて信用を失うことが怖い。

二つ目は、気持ちが少しでも上がったら、次へ向かえと急かされること。自分の人生を自分でコントロールできないのに、強いストレスを感じる。人から様子の変化を見られていることも。自分で生活できなければ権利は主張できない理屈はわかる。じゃあ、死ぬ自由がないのはなぜ。強制されて生きている、とどこかで思っている。生きていることに感謝していない私は心が貧しいんだろうと思いもするけど、たまたま生まれてきた命はきっとそんなに感謝すべきものじゃない。人も単なる動物で、宇宙の大きな渦の中、無秩序な偶然に産まれ落ちただけのこと。欲や感情に左右されて無明世界にいる人間は、星々や千年生きる大樹にはひどく愚かで醜いものに見えるだろう。

多くを望まず、社会にも縛られず、自由に生きる動植物に精神の清らかさを感じる。10代の頃から、社会から隔絶した仙境や里山での自給自足の生活への憧れがある。欲望や生々しい感情の渦巻く世間から離れれば、誰の視線も気にせず心静かに過ごせるから。そうした普通は余生に考える生き方を志向する私は、当然エネルギーに満ちた同世代とテンションが合わない。エネルギーの塊のような学校は、ひどく居心地の悪い空間だった。一人で過ごすと違和感を持たれること、現生的な話に夢中になれないこと。そういうコミュニケーションが思いつかず、表面的に合わせる器用さを持てなかったこと。感じるストレスは、大学生になっても変わらなかった。


昨日は、フラッシュバックするままに気持ちを吐き出した日記をアップした。自分でも嫌になるくらい暗い日記で、どろどろした感情を人に知られることは怖かったが、精神の安定のためにはどうしても吐き出さないといけなかった。


今日はじんわり暗い気持ちだけどだいぶん落ち着いて、過去の日記を読み返していた。すぐに忘れそうになる生の感情が追体験できて、こういう時間も必要だと思った。

が、関心の中心が自分であることはやっぱり恥ずべきだ。それはこどもの心で、社会と繋がる意識を持たなくちゃいけない。内向から外向へ変化するのが社会人としての目覚めだと思うけれど、私は自分としか会話していない。たぶんこれは一時的な鬱によるものではなく、私はずっとこうだと思う。自分の心のありどころは延々考えるけど、関心を分散させたり、社会的な興味を持つことは意識しないとできない。自分の内面は無意識に考え続けるだろう。

いや、ちょっと格好良く言ったけど、これは私の自閉症スペクトラムの要素であって、あまり良いものじゃない。自分の内面を覗くのはしんどいから。しんどいのにやめられない。

これは心の癖のようなもので、日によって気分の上がり下がりがあるのも普通のこと。じゃあ、もう鬱じゃない?自分の希望ややる気が湧かないのは甘えじゃない?よく、わからない。

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