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文学ちゃん

いよいよこれは何のためにやっているのか分からなくなってきたぞ、と午前零時を回ったあたりでぼくは思った。四時間前からぼくの眼前のパソコンには、「あああああ」とだけ書かれていた。とりあえずキーボードを叩いてみれば何か生まれるかもしれないという思い付きで入力されたこの五文字にはもちろん何の意味もないので、今までの作業の進捗は実質0文字だった。
ぼくのアパートは線路沿いに位置しているため、さっきまでは数分刻みで電車の通過するごうごうという音が聴こえていたのに、それすらも鳴りを潜めて、焦りは激しくなっていった。
そんな行き詰った焦りとは裏腹に、いや、行き詰っているからかもしれないが、深夜の性欲はむらむらと肥大化していき、我慢の限界に達しようとしていた。
 普段のぼくならサクッと抜いて寝てしまうのだが、行き詰っているときというのは突飛なことを考えて問題の解決を図ろうとするもので、ぼくは気が付いたら「月が綺麗ですね」という近所のデリバリーヘルスに電話をかけていた。昨日遊んだ友人の「風俗はいいぞ」という言葉が無意識下に残っていたのかもしれないし、デリヘルを呼ぶ経験が、小説を書くことに活かされると思ったのかもしれない。とにかくぼくはツシマという偽名を使って、店で一番スタイルのいい娘を指名したのだった。
 ぼくは浮足立った気持ちで部屋を片付け、急いでシャワーを浴びた。洗面所の鏡に映る自分の姿は、どこからどうみても冴えない大学生のそれだった。高校生のころからコンプレックスだった女のような情けない顔立ちは、ほとんど部屋から出ない惨めな大学生活を経るうちに、より拍車をかけて情けなくなっているような気がした。
デリヘルなんか呼ばないで親孝行しろよ、と鏡の中の自分に説教してみたが、もちろん返事はなかった。

 そわそわしながら三十分ほど待っていると、アパートの前に車が停まる音がして、部屋の呼び鈴が鳴った。ぼくは駆け出したい気持ちを抑え、あえてゆっくりと玄関まで向かった。
ドアを開けると、そこには大きなビニールの鞄を持った女が立っていた。十八才と言われたらそう見えるような、しかしよく見たらだいぶ齢がいっているような、不思議な顔立ちの女だった。身体のラインがはっきりと分かるタイトなワンピースを着ていたが、全く扇情的には見えず、むしろ痩せぎすの身体の痛々しさが強調されてしまっているような気がした。しかしそんな異様な容貌のなかでも、最も際立って異様だったのが、彼女の眼差しだった。見るものに底知れない不安感を与える三白眼で、瞳はどす黒く濁っていた。目線はどこか遠くの方を向いていて、生気の通っていない感じがした。
「わたし、文学ちゃん」女はそう言った。
自分のことを、文学ちゃん、と、そう呼んだ。
デリヘル嬢にしてはあまりにもパンチが効きすぎている自己紹介に動揺したぼくは、聞き返すこともせずに「ツシマです。よろしくお願いします」と返して、彼女を部屋に招きいれた。
 ――「月が綺麗ですね」という店名だから、源氏名が「文学ちゃん」なのか? 普通は、いや、文学モチーフのデリヘル店なんて、決して普通じゃないけど、文豪の名前をもじったりして源氏名にするんじゃないのか? 「文学ちゃん」って。概念そのものじゃないか。その理屈でいくと、「哲学ちゃん」や「法学ちゃん」や「グローバル・コミュニケーション学ちゃん」までありになってしまう。
 はじめての風俗で高難度の嬢を引き当ててしまったぼくは、大いに混乱しながら彼女をソファに座らせた。
「シャワー、浴びますよね?」直前に閲覧した「初心者必見!デリヘル嬢をお迎えするときの流れ!」というサイトの情報通りにぼくは聞いた。
「いい」
「え?」
「浴びない」
「でも……」
「あなた。小説、書いてる」ぼくの言葉を遮って、彼女はそう言った。
 なんで?? 確かにぼくの部屋には少しばかり本が多く置いてあったかもしれないが、ぼくが小説を書いていることを推測できる絶対的な材料はどこにもなかった。
「どうして分かったんですか?」そんなことを訊く前に、もっと訊くことがあっただろう。しかし、動揺に動揺を重ねていたぼくからはその質問しか出てこなかった。
「空気が淀んでるから」
「はあ」
「小説を書いてるひとの部屋、空気淀んでる」
「……そうなんですか!?」もはや動揺や混乱の限界に達したぼくは、「文学ちゃん」と自然に会話をしていた。
「なぜ、あなたは小説を書く?」
「なぜって……」
「なぜ」彼女の目線は未だに焦点が合っていなかったけれど、嘘やごまかしが通用しない、不思議な迫力があった。
「うーん。小学生の時から、作文とか得意だったし、センター試験の現代文も満点だったんで……できるんじゃないかと思ってるんですけどね」自分でも驚くくらいの曖昧な返答しかできなかった。
「それは小説を書く理由じゃない。小説を書く素養があるかもしれない理由」
「確かに……」
「あなたは、なぜ小説を書く?」
「……えーっと」どうして初対面の風俗嬢にそんな質問をされなくてはならないのかと思ったが、彼女の問いにはしっかりと向き合う必要があるような気がした。
答えはなかなか出てこなかった。沈黙が続いた。その間も文学ちゃんはうつろな目で虚空を見つめていた。
「……正直に言うと、社会に出たくないだけだと思います。平日の昼間からスーパー銭湯に行けるような生活を一生続けていくための手段として、小説を書くことを選んでいるだけなのかもしれません」薄々自覚していながら遠ざけていた正直な思いを、なぜかぼくは文学ちゃんに打ち明けていた。
「現実逃避?」
「そう言われればそうなのかもしれないですけど……望まない未来が現実にならないように努力するのは、逃避ではないんじゃないですか? 現実を一旦受け止めたうえで、回避しようとしているというか……」
 ぼくが二の句を継ごうとする前に、彼女は「きべんね」と言った。その音が「詭弁ね」という文字に変換されるまでに、頭の中で少し時間がかかった。
「詭弁、ですか?」
「そう」
「どうして?」きっと核心をついた嫌なことを言われるのだろうという、確信めいたものがありながら、ぼくはそう訊かずにはいられなかった。
「あなたは小説家になれない。そういう現実があるから」彼女は淡々と、しかしはっきりとそう言った。
「どうしてそんなことがわかるんですか?」
「その質問に対しては、二つの答えかたがある」虚空を見つめていた文学ちゃんが、突然ぼくに目線を合わせてそう言った。
「一つ目は、あなたは頭がいいから」
「二つ目は、あなたの人生に、価値がないから」
「……まあまあ、そうですよね」ぼくは溜息をつきながらそう返すことしかできなかった。
彼女の言わんとすることは、なんとなく分かるような気がした。それはぼくが、小説を書こうとして途中で匙を投げるときに、いつもぼんやりと考えることだった。
「あなたがそういう態度を取るたび、あなたから文学が逃げていっている。言葉にできないことをこわがって、八十点くらいの言葉で全部を置き換えようとするから、置き換えることができてしまうから、小論文みたいな人生にしかならない。だから、あなたは小説を書けない」
「……わかってますよ」
「わかってない」
「わかってる」
「わかってないから、小説を書こうとしているんでしょう。何不自由なく育ったあなたの小説は、決していいものにならない。誰も救えない。自分のことさえも救えない。つらい現実から逃げたところで、待っているのはもっと辛い現実だけ。あなたには、自分の才能の無さを直視できる心の強さはない。早く諦めるべき早く諦めるべき早く諦めるべき早く諦めるべきはや……」
「いい加減にしてくれよ!」文学ちゃんの、呪詛のような言葉の連続に耐えかね正気を失ったぼくは、何とかして彼女を黙らせようと思って首を絞めた。ひんやりとした白い首の質感は気味悪く、早く手を放したかったが、彼女が完全に沈黙するまでには少し時間がかかった。
彼女は全く抵抗しなかった。ただ最後の瞬間まで、ぼくに呪詛を浴びせながら死んでいった。
 生気の通っていなかった文学ちゃんの眼差しは、死体となった今のほうが、彼女によく似合っているような気がした。人を殺した動揺や後ろめたさのようなものは全く感じられず、むしろ晴れ晴れとしたような気持ちだった。
 ぼくは、死んだ人間をじっくり見ることのできる機会などそう無いだろうと思って文学ちゃんの死に顔をじっくり見分した。厚く化粧をしていたし、随分と痩せていたので気付かなかったが、よく見ると文学ちゃんの顔はぼくにそっくりだった。
 というよりも、ぼくの顔だった。
 流石におかしいと思って、文学ちゃんだったものの髪の毛を引っ張ると、茶髪のロングヘア―のかつらが剥がれた。いよいよ怪しくなってきたぞと思ったぼくは、もとからそういうことをするつもりだっただろうと自分に言い聞かせることで罪悪感を緩和しながら、魚肉ソーセージを剥くような感覚でワンピースのスカートをまくり上げた。彼女、いや、彼が履いていたのは、ぼくも持っている柄の、男物のボクサーパンツだった。
 どうやら文学ちゃんは、ぼく自身だったらしい。
ありえないことだが、現実を受け入れるしかないようだった。自分自身を殺して罪に問われることはたぶんないんじゃないか、そう考えると安心してきた。
 目の前に横たわる自分だったものの処理を後回しにして寝てしまいたかったぼくは、それをお姫様抱っこで運んで、バスタブに放り込んだ。死体というのは本能的に嫌悪感を抱かせるもので、ボクサーパンツ越しに腕に食い込む自分の尻の感触が、何とも言えない気持ち悪さだった。
 体力的にも精神的にもハードな仕事を終えたぼくは、キッチンの戸棚からとっておきの金色のセブンスターを取り出し、コンロの火にかけて吸った。換気扇のごうごうという音を浴びているうちに、さっき起こったことは悪い妄想かなにかだったんじゃないかと錯覚しかけたが、床に落ちていた文学ちゃんのビニール鞄がぼくを現実に引き戻した。
 鞄のなかには何も入っていなかった。エコバッグにしたらちょうどよさそうだったので、キッチンの棚の取っ手にかけておくことにした。
キッチンで歯を磨いていると呼び鈴が鳴った。こんな時間になんだろうと思って時計を見ると、文学ちゃんが来てからまだ十分くらいしか経っていなかった。首をかしげながらドアを開けると、背の高い女が立っていた。この女はどうやらぼくではないようだった。
「お待たせしちゃってすいません~『月が綺麗ですね』の治子(はるこ)です♡」
「…………あ、ツシマです」
 

治子のテクニックはすさまじく、ベッドをローションまみれにして帰っていったので、ぼくが床に就くことができたのは午前三時ごろだった。

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