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映画「波紋」は「かもめ食堂」への…!?

Youtubeでワンコ動画観ていたら、おススメに映画「波紋」の一場面を切り取ったものが出てきたので何気なく観たのでした。↓
(なぜ今頃この動画がおススメに出てきたのか?関連動画を観た覚えもないんだけど…不思議)

この動画観て、アッ、もしかして…という一つの考えが浮かんだので、今回はその”気付き”を書いてみようと思います。

絶対そう思う、そうに違いない!ってことではなくて、そういうこともあるかもね?程度の話ですし、分かっている人からしたら、「何今頃気付いてんの?」って話です😅。



「波紋」はセルフ・オマージュ?


映画「波紋」
「かもめ食堂」「めがね」の荻上直子監督による2023年の作品。主演は筒井真理子

グゥと唸るしかないような何とも言えない不快感と面白さが共存する作品でした(不快感の方が常に勝ってたかなぁ)。
私はWOWOWの「W座からの招待状」でやっていた時に観ました。

いまNHKでやっているドラマ「燕は戻ってこない」も、出てくるキャラ全員好きになれないドラマですが(;^_^A、この映画もある意味似ていて誰も好きになれない。抑圧されてたり、理不尽なことに苦しめられていたりする主人公の依子に、普通は感情移入して応援したい気持ちになりそうなものですが、新興宗教にのめり込んでたり、障碍者嫌悪があったり、その他にもある彼女の狂気がそれを邪魔をする。(”依”子という名前も”依”存からきてるんですかね?)

この映画における”波紋”の意味や考察は特にしていなかったのですが、コチラの記事に色々書かれていて、あ~なるほど!と腑に落ちることが出来ました。感謝です<(_ _)>。


で、私が一番最初の動画でふと思ったこととは…
この映画、荻上監督のセルフ・オマージュというか、セルフ・パロディというか、自己批判的な要素があるのでは?…ということなんです。

新興宗教「緑命水」の支部長?(教祖ではなかったよね?)のキムラ緑子、そして最初の動画にも出てきた信者の、平岩紙江口のりこ

みんなで変な踊り踊ってますけど、これは荻上監督の映画「めがね」のこのシーン(メルシー体操というらしい)のセルフ・パロディっぽいですよね。

「めがね」ではなんか変な踊りをみんなが踊って面白い、子供も踊って微笑ましい的扱いだったと思うのですが、「波紋」では”宗教”ということで一気に怪しさが際立ちます。大の大人が何を真剣にやってんだ感もある。

しかしやってることは”みんなで踊る”ということで一緒。ただ”宗教”というフィルターを通してみるかどうかでここまで印象が変わる。
言い換えれば「めがね」の踊りも凄く宗教的に見ようと思えば十分そう見える。その境界線は紙一重であり、見る側がどう捉えるか…監督は自分の過去作を知っているファンにそれを投げかけている…そんな気がします。あなたが喜んで観ていたものも、少し見方変えたらこんな風に怪しく見えるんですよ!と。

で、最初の動画に話は戻って、

この女性たちの繋がり(女性限定でなく小さいグループでもいい。ここでは新興宗教の信者グループ)。一見支え合ってそうで本当は大して相手のことを想ってない…と言ったらいい過ぎか?でもどこか心の距離があるというか、表層的というか、その相手個人への湧き上がる好意、興味や関心が欠如した感じ、これって…荻上監督の代表作「かもめ食堂」への強烈なアンチテーゼというか自己批判でもあるではないかとも思ったのです。


シナモンロールにカウンターパンチ!


「かもめ食堂」
は大好きな映画です。この映画の影響でシナモンロールを自分で作ることを覚えたくらいw。

昔作ったシナモンロールの写真がありました。
グイっと指で押さえるのが足りなかったかな?
普通はアイシングとかワッフルシュガーですが、
適当な性分なので粉糖振りかけてるw

シナモンロールを作る時は、小林聡美演じる映画の主人公サチエのように「アッ、シナモンロール作ろう!」と、ふと思い立ったように作るのがポイントだと思っている自分がいる(←なんじゃそりゃw)。決してシナモンロールを作るためにわざわざ買い物に行って作るのはダメ。普段から材料揃ってまっせ!&作り慣れてる感を出したい。じゃないと”脳内「かもめ食堂」ごっこ”が成立しなくなるから(笑)。思い立ってサラッとシナモンロール作れる自分がサチエのようにカッコいいぜ!と自己陶酔しちゃう。自分がイタイ奴だな~と認識しつつも、出来上がったシナモンロールの香りを嗅いだら、そんな想いは吹っ飛んで幸せな気分でモシャモシャ食べる。その繰り返しだけど、それでいい。その些細な幸せを感じることが大事なんだろうと、まあそんな感じです←どんな感じだ!?😅

余計なシナモンロール話は置いておいて、

「かもめ食堂」では小林聡美(サチエ)、片桐はいり(ミドリ)、もたいまさこ(マサコ)演じる3人の日本人女性がフィンランドという異国でゆる~くつながり、ゆる~く支え合い、ゆる~く幸せになっていく。そんな人とのつながりをポジティブに描いていた作品。

でもあの寄り添っていく感じが、最初の動画の平岩紙と江口のりこが筒井真理子に声をかけて寄り添うのを装う感じと、見かけ上は非常に似てる。先述したメルシー体操と同じで、やってること自体は優しく声をかけて寄り添おうとしていてほぼ同じことをしているわけですから。

「何か困っていることがあったら何でも言ってくださいね~」

両作品ともこんな感じの言葉で寄り添おうとする。
「かもめ食堂」ではスーツケースをロストバゲッジしたマサコに、サチエとミドリがこんな感じで手を差し伸べていました。

しかし”宗教”というフィルターを通すだけで、同じことしてる平岩紙と江口のりこの演技はなんとも薄気味悪く、居心地の悪い印象になるから面白い。まあそこは絶妙に気味悪さを感じさせる”間”とか、作られた笑顔なんていう演技を駆使しているので当然といえば当然ですが…。

だから「かもめ食堂」も一歩間違えたら(カルト)宗教と大して変わらないのかもな…と考え始めたのです。あの映画の女性達による優しい寄り添い合い=シスターフッドとでもいうものに”癒し”を求める観客は多かったと思うんですよね。しかし癒しを求める、癒しを与えるのは宗教の大きな役割ですから、見る側の想いひとつで「かもめ食堂」の持つ”癒し”も宗教化していくことになるでは?と。
(片桐さんはどうしても仕草にコメディ感が出ると個人的には思うので、カルト信者役はあまり嵌らないと思うのですが、小林&もたい両氏は無表情&落ち着いたトーンで話していると結構怖くてカルト信者役もバッチリ嵌るタイプだと思ってます)

というか、カルト宗教の方が「かもめ食堂」のような”人の良さ”を基にした寄り添いを装って、人の心に入り込もうとする手法を採用して信者=金を集めているということなのかもしれません。

とにかくこの「かもめ食堂」のシスターフッド、人の寄り添いの宗教化というかカルト化というか、それを逆手にとって、今回の緑名水の信者グループや木野花さん演じる”サウナ唆しババア”を登場させた(←「あまちゃん」のメガネ会計ババアの派生形w)。寄り添いは癒し、薬にもなるけども、毒にもなりうるという部分を出してきた。「かもめ食堂」みたいな優しい繋がりなんて現実的じゃない、所詮大人の現実逃避のおとぎ話…みたいに過去作への強烈なカウンターパンチというか冷や水を浴びせてきた、そんな気がしたのです。

「かもめ食堂」のシナモンロールおにぎりというアイテムが、「波紋」では緑名水の水。どちらも登場人物に癒しと幸せを与えるアイテムなのに、コチラが受け取る印象はこうも違うというのが非常に面白い。


「かもめ食堂」は気持ち悪い?


そんなことを考えていたらBSで「かもめ食堂」が放送されていました。

この作品も毎年放送してる気がする。
毎年じゃなくても二年に一度くらいの頻度では放送しているような?🙄

で、Xなんかではトレンドに入り、相変わらず大好きという意見や、この映画を観てフィンランドを訪れ、モデルになった食堂も行ってきたという投稿なんかもチラホラ。

しかし一部で「気持ち悪い」という批判的な意見も見かけた。
へぇ~そんな意見も出るようになったのかぁ…と、いままで好意的な意見一辺倒だった気がしていたので意外に思い、ちょっとgoogle検索に「かもめ食堂」と入れてみた。すると予測ワードには確かに「気持ち悪い」というのが出てくるのです。

では何が「気持ち悪い」のか?

私が感じたような宗教的な匂いを感じ取ったのか?
そこまでハッキリ書かれた意見は見当たりませんでしたが、あの現実感の無さに納得のいってない方や、フィンランド人はもっと排他的(アジア人差別がある)だという意見とか、あの世界観を受け入れらない方からのシビアな意見が多い印象。

まあ言いたいことはわかります。私の中にもイイな~と思う部分と、敢えてツッコまないというか、見て見ぬ振りして楽しんでるような部分があるのは事実。舞台が日本だったらもっと現実感が増すのでツッコまずにはいられない部分も、舞台が外国だけに、まあそんなこともあるかもね~と、ゆる~く許容できてしまう部分はありますよね。

で、今回気になったので、群ようこさんの原作を読んでみることにしました。

すると、意外に地に足が付いているといいますか、映画の中ではファンタジーっぽく描かれていた部分は原作にはほぼ無い。彼女たちがなぜフィンランドにやって来たか?ということも丁寧に書かれているし、映画を観ていて感じるモヤモヤ、ファンタジーテイストは監督の意向が強く反映されているんだな…ということがわかりました。作家性を出したかったんでしょうかね~?

ふと思ったのですが、流行ってない飲食店がふとした訪問者で繁盛していく&ちょっと不思議なテイストを盛り込んでいる&シスターフッド映画…という点で「バグダッドカフェ」に通ずるものがありますね「かもめ食堂」。どちらもカルト的人気作品になっているし。荻上監督は「バグダッドカフェ」は意識していたのだろうか?気になる所です。

私のバグダッドカフェの記事はコチラです。↓


ということで、少し話は脱線しますが、映画と原作で違う部分なんかを、備忘録的に書いてみたいと思います。ネタバレいらないという方はスキップしてくださいませ。

次章のあとに「かもめ食堂」のもう一つのカルト性について話が続きますので、そちらに飛んでください。


「かもめ食堂」映画と原作の違い

私が映画を観ていてゆる~く気になりつつも、まあいっか~と流していた所は…

そんな簡単に日本人が店持てるもんなの?
サチエさんの懐事情はどうなってるの?
ミドリさんは何をしていた人なの?
ミドリさんやマサコさんはビザとかどうなってるの?不法就労にならないの?

などでしょうか?

そういう現実的な部分は一切語られないので、どこかご都合主義というか、モヤモヤする人もいるんだとは思います。

それで今回、群ようこさんの原作を読んでみたら、いろんなことが判明してスッキリしました。さらっと読めるし、映画のテイストもあるのは勿論だけど、群ようこ節も健在で未読の方にもおススメです。

群ようこさんは大学時代に友達がハマっていて、「無印良女」シリーズを勧められて借りたら私もハマリ、一時期よく読んでいた作家さんです。しかし「かもめ食堂」に関しては、今まで全く読もうと思わなかった。なんかメジャーになり過ぎて…とか、いまさら読んでも…とか、映画で観てるしね~とか、自分の中で群ようこブームはとうに終わっていて逆に距離置きたい期だったような気もしないでもない…なんかそんなひねくれた理由です(;^_^A。

で、今回読んでみて解消した疑問をザックリだけど書いてみたいと思います。また映画鑑賞後に自分が知りたくなるかもしれないので。

*ここからはネタバレがあるので、知りたくない方は飛ばしてください。

サチエに関する疑問

まずサチエの懐事情。なぜフィンランドに店を出せるほどのお金を持っているのか?

それは、ズバリ!宝くじに当たったから!!…でした😅。

そしてなぜフィンランドなのか?…と言うのも判明。

サチエの父が道場をしており、世界中から弟子入りにやってくる。
そこにフィンランド人のティモさんという人がいて、他の外人弟子は戦闘モードなのに比べて、彼は無表情ながらもサチエに優しく接してくれた人物だった。(*フィンランド人良さそう)

そしてティモさんの要請で、父親がヘルシンキの道場に出張指導しに行くついでに家族みんなで旅行に行った際、フィンランドに対して好印象を持っていた。(*フィンランドという国も良さそう)

それと映画内でも語っていたと思うけど、魚を食べるフィンランド人との食文化の親和性みたいなものも言っていた気がします。(*和食を受け入れてくれそう)

そしてその後、長年連絡を取ってなかったが、フィンランドで食堂をしたい旨をティモさんに手紙を書いて相談したら、「おろろきました(驚きました)」と言いながらも保証人になってくれたり、全て段取りをしてくれた。
ただし、サチエが移住した後に彼は韓国に武者修行に出掛けてしまった…。
映画ではその辺りの経緯がバッサリとカットされていて、ティモさんも出て来ず、どういう経緯かわからないが日本人女性がフィンランドでなぜか食堂をオープンしているということになっているんですね。

サチエが料理上手なのも、父親から道場を継がされるかもしれないプレッシャーを感じつつ、それは嫌だったので、12歳で母親を亡くしたのを機に家事はすべて担当することで道場から距離を取ることに成功。家事の中で料理が特に好きだった。そしていろんな料理学校、フレンチ、イタリアン、エスニックなどにも通い腕を磨いていた。調理師免許も取得済み。OLをしつつ、いつか食堂を開きたいという漠然な想いは持っていたから。

ミドリさんに関する疑問

ミドリさんは何者か?ってことが一番の疑問でしょうか?

ミドリさんは兄二人、弟一人の三番目で生まれた。
結婚相手も見つかるだろうと親の紹介で入った会社は天下りの人物ばかりの会社だった。
おじさん社員たちも天下りだから大した仕事をするでもなく、そのサポート的な役割のミドリさんも大した仕事をするでもない状態。ちょっとした雑用係。そこにパソコンが導入されて、ますます便利になってしまった。しかしお給料は仕事に見合わないほど貰っていた。

そんなこんなで辞める理由もないままノンビリ20年以上勤めてきたが、世間の天下りに対する目も厳しくなり、徐々に社員も入って来なくなり高齢化で辞めていくばかり。そしてとうとう社長から解散を言い渡され、辞めざるを得ないことに。

兄弟からは面倒はみれないと予防線を張られ、たいしたキャリアもなく、どうしようかと思っていた矢先の正月に、兄弟が勝手なことをいうのに腹が立ち、勢いで「計画してることがある」と言ってしまう。

そこからは映画の通り。目をつぶって世界地図を指さした場所がフィンランドだったのでやってきたという事情でした。
兄弟たちにはフィンランドで語学留学をする、国立ムーミン・フィンランド語専門学院に行くんだと適当なことを言って出てきたらしいw。

いままで実家暮らしでそれほど浪費することもなく、さらに退職金も貰っていたので、ミドリさんも金銭的に余裕があった、だからあんな感じでゆったりと滞在していたということのようです。

マサコさんに関する疑問

マサコさんは、両親の介護をしていたという下りは映画と一緒。
ただその両親が不動産、マンション経営しているような資産家だった。
病弱な両親を家事手伝いしながら支えてきたマサコさん。

彼女には弟が一人いて、両親の死後に経営を受け継いだが事業に失敗してマンションと彼の家が抵当に入っていたので取られてしまった。

残ったのはマサコさんが両親と暮らしていた実家と投資用のワンルームマンション。
弟には年子の双子(計4人)がいて、妻とで6人の大所帯だからマサコさんに実家から出ていってワンルームマンションに行ってくれと言ってきた。

独り身だし、掃除も楽だし、まあいいかと思って引っ越したけど、やはりフツフツと怒りが湧いてきた。イライラが募って、ついに弟に「アンタのおかげでクサクサするから、気晴らしに旅行に行ってくるわ!」と言ってフィンランドに行くことにしたんだと。

なぜフィンランドだったのかは、親の介護をしている時にニュースでフィンランドで行われる「エアギター選手権」「嫁背負い競争」「サウナ我慢大会」を見て、なんかスコーンと抜けてるようで、しがらみもなさそうで楽しそうな国だと思ったから。(映画ではエアギターの話題を広げてましたが、原作では嫁背負い競争の方を詳しく説明してました)

映画と原作で違うところ


映画の方は大人のおとぎ話的に、不思議な場面や唐突な場面なんかがある。

マサコさんがいきなり見知らぬ老人から猫を渡されたりトランクの中がキノコだらけだったり。でも原作の方はそんな不思議な場面はない。ああいうのはすごく監督が自分の色を出したかった部分のようです(インタビューでもそう答えていました)。

あと、サチエがプールで泳ぐシーンも原作にはない。
日々の生活を想像したときに、運動ということで思いついたんだとか。
よって映画ラストにある、プールにいる人みんなから拍手されるなんていう碇シンジみたいなことは原作では起こらないw。

外からずっと睨んでるおばさんのエピソードはほぼそのままある。ただし最後まで旦那は戻って来ない。吹っ切れた風の展開。

元オーナーの男が盗みに入り、サチエがやっつける話はちょっと違う。彼から貰ったコーヒーのコピルアックも出てこなかった。←これはちょっと残念。
原作では、足を洗いたい犯罪者の男と、まだまだ続けようと諭す仲間が店にやって来る。足を洗いたい男は結局何もせず、なけなしのお金でコーヒー代を払っていく。一方、諭していた仲間が後日、サチエとマサコが二人で店を閉めようとしているところに「金を出せ!」と強盗しに来る。それをサチエが撃退。マサコが路上にて大声で助けを呼んだことで二人が一気に注目され、「日本の女相撲のチャンピオン」なんて新聞に載るまでのニュースに。

サチエはこの一件で一躍有名人に。「かもめ食堂」自体もそれに伴い人気店になっていく。加えて地元の道場にも呼ばれて技を披露すると、そこの道場生もお客になってくれ益々繁盛する。←映画は特に理由なく、徐々に口コミで増えていった的な流れだった気がする。

マサコさんが森に行くエピソード。映画では大量に採ってきたキノコが消え、届いたスーツケースにキノコが詰められているという不思議な展開。
原作では少し採ってきたキノコをインスタントラーメンに入れて食べたら顔が痺れ、歯医者で麻酔を打たれたみたいに呂律が回らなくなるというエピソードになっていた。

あとミドリさんがトンミヒルトネンに最初の頃ちょっと当たりが強いのは、コーヒーをただで飲んでいくからだと思っていましたが、それだけじゃなくて彼がミドリさんのことを「ミッドーレさん」と間違って言い続けるから。一度ミドリさんが訂正してもまた「ミッドーレさん」に戻ってしまう。これが彼女をイラつかせていたんだというのが原作を読んでわかりましたw。

ガッチャマンの歌エピソードや、フィンランド風おにぎり試食会の話なんかは原作通り。

映画ラストの「いらっしゃいませ」の言い方については映画オリジナル。原作のラストは…読んでみてのお楽しみ!…っていうほどの凝ったものでもなかったけど。


「かもめ食堂」のカルト化と「波紋」のカルト批判

先に、荻野監督が「波紋」で「かもめ食堂」にカウンターパンチを食らわした…みたいに書きましたが、もう一つ宗教というかカルトっぽいなと思った部分があります。それは「かもめ食堂」ブランドの確立と発展に関して。

映画やドラマで、”カルト的人気作”という表現がよく使われますが、私が持つ”カルト的人気作”のイメージは、マニアックな監督がこだわって作り、そこに熱狂的なファンが付いた…知る人ぞ知る作品というイメージ。その熱狂的なファンの部分がカルト宗教を連想させるからそう呼ばれるわけですよね。

もちろん監督や制作陣は多くの人に見て貰いたい気持ちはあるでしょうけど、だからと言って観客に媚びた作品ではない気がする。自分の作りたいもの、こだわり、作家性が第一。観客も好きと思ってくれたらそれはそれで良し的な感じ。

しかし「かもめ食堂」は仕組まれた教祖誕生感があるんです。いやな言い方で言えば”こういうのやればお前ら喜ぶだろ”感とでも言いましょうか…。

なぜならこの作品の発端は、実は原作の群ようこさんでも、監督の荻上さんでもなく、プロデューサーがフィンランドで作品を作ると言い出したことから始まっているからです。

過去のインタビューを調べていたら、監督がこう言ってます。

”プロデューサーが何か思うところあったのか「フィンランドで映画を撮る」という企画を立ち上げまして、プロデューサーから群ようこさんに原作の執筆をお願いしたんです”
と書かれていました。

実際、この本の第一刷が2006年1月書下ろし作品
そして映画が2006年の3月公開。

ということは、初めに原作ありきの映画化ではなく、最初に企画ありで原作依頼された群さんがプロットを出して、それを元にほぼ同時進行で映画も作られたということが時系列から推測できます。

このフィンランドで映画を撮ろう!ってのが、私的にはもう一腹ありそうという気がするんです。最初の「波紋」の動画も博報堂の関連会社がアップしていますし、こういうのって大抵電通とか博報堂とかの広告代理店が絡んでる。そういう会社がフィンランド政府観光局とか、映画内で出てくるマリメッコとかイッタラとか、フィンランドブームを作りだそうという思惑があるところと繋がりを持っていて、そういう話を映画プロデューサーに売り込んだらその人物が乗っかった…ってのが経緯ではないかと。最近のブームやトレンドは大抵そうやって意図的に作られるから普通の流れといえばそうなんですけども。代理店だけじゃなく、「かもめ食堂」の出版社は幻冬舎、「めがね」の製作委員会の「めがね商会」には日テレとかが関わってる。まあ言い方悪いけど”あくどいことやってる”という印象の強いところです。

純粋にそのプロデューサーがフィンランド旅行に行き、一気にその国に恋をしてしまい、そこから広告代理店や原作者、監督と全てに話を持っていった…という可能性も無きにしも非ずですが、それなら”何か思うところがあった”なんていう表現はしないと思うんですよね。「フィンランドに恋したからそれを舞台にした映画を作りたかった!」でいいはずですから。

そう、つまり端的に言えば「かもめ食堂」はメディアミックスによるフィンランド・プロモーション映画だったということです。←まあ一目瞭然といえばそうなんですけど。

そして、その思惑は見事に成功した訳です。
そりゃそうでしょう、たぶん実際にフィンランドに行ったら、案外普通の地味な国だと思うのですが、映画の中ではオシャレなお店、オシャレな市場、イッタラの素敵な食器にフードコーディネーター飯島奈美さんの美味しそうな料理、マリメッコのオシャレな服も着てドレスアップ、とにかく好感度女子が好きそうな素敵なもの満載。「世界はほしいモノで溢れてる」の映画版。バイヤーおススメ品で溢れさせてる。

これはトレンディ・ドラマの元祖「抱きしめたい!」から脈々と受け継いできたトレンド作りの手法ですよね。W浅野にオシャレなファッションを着せ、オシャレなマンションに住まわせ、オシャレな恋愛をさせる。その恋愛要素をシスターフッドに切り替えただけ。90年代で散々やり尽くした恋愛ドラマが苦手だった層、疲れた層にはちょうど良かった…ということもあるのかも?

だから本来のカルト的作品というよりかは、画策が成功して一部の層に非常に受けた作品なんだということです。私を含むファンと言うのも、マニアックな監督の作風に心酔した人たちというより、マンマとメディアにのせられた人たち…と言ったところでしょうか?

そう、どこかたけしの映画「教祖誕生」じゃないけど、何か作られた教祖感をこの作品には感じてしまうのです。

(もたいさんも出てるじゃないですかッ!!音楽がチェッカーズの尚之!?寅さんのおいちゃん(下條正巳)が偽教祖だしw、じっくり観直したくなってきた)

こういうヤバイ新興カルト宗教も本性は金儲けが目的なわけで、エンタメのブームを作るのも、全てが嘘ハッタリとは言いませんが、実力があるように見せかけて、ステマレビューで評価爆上げして、カルトファンを増やして金儲けに繋げていく。やってることは基本スゴク似ている。

そしてさらに「かもめ食堂」の凄いというか商魂逞しいところは、同じようなテイストを打ち出して幾つも同系統の作品を作り続けていったところ。黒柳徹子に「ジェネリック!」って言って貰いたいようなジェネリック映画を量産していったんですねw。

「かもめ食堂」ブランドが確立した後、

小林聡美さんがしていたPascoのCMもそのテイストに乗っかっていたし←まさに広告代理店が仕組んでる感


あの「かもめ食堂」のスタッフが届ける…”
”「かもめ食堂」のスタッフが再び集結!”

みたいな枕詞がついたPRの作品が定期的に作られるようになっていきました。
同じ荻上監督の「めがね」、群ようこ原作のドラマ「パンとスープとネコ日和」はまだわかる。そのどちらも関わってないけどキャストが被ってたり、プロデューサーが被っていたりというだけでも上記の枕詞が付いてPRされていた作品が定期的に作られてきました。「プール」「マザーウォーター」とか「ペンションメッツア」「コートダジュールN゚10」とか。
「コートダジュールN゚10」はWOWOWとHulu共同制作。Huluは日テレ系ですから、やっぱりその辺が裏で企画してる感じ?)

とにかく「かもめ食堂」と枕詞を付ければ、そのファンが一定の割合でついてくれて消費活動をしてくれる。ある程度の収益が期待できる安牌作品という感じ。キャストも被らせ、雰囲気も継承して、しかしこれと言ったメッセージ性があるというわけでもなくふわ~っとやさしい癒し系、シチュエーション違いの似たような映画。

山田洋二の「寅さん」シリーズみたいに一貫して山田監督の作品としてならわかるのですが、原作も監督も違う、”「かもめ食堂」のチーム”っていうある意味正体不明で、その遺伝子がどう受け継がれているのかもわからないものに乗せられてる感じがちょっとモヤっとする。例えていうと、教祖はとっくに死んでるのに、幹部たちがその意思を引き継いだ体で好き勝手やってる宗教みたいな?

別に「かもめ食堂」だけでなく、商業主義が生み出したブームトレンドアイドルビジネス、最近の推し活とかも同じ構造でカルト宗教化が激しいし、もっとひどいとは思う。

エンタメは(宗教も)基本自分に人生の主体、主軸があって、そこに彩り、癒し、慰み、時には勇気や力を与えてくれる、従属的なものであるべきだと思うのです。エンタメから生きる希望を貰ったとか、夢を貰ったとかはあるだろうけど、その貰った自分の人生を輝かせることの方が重要なはずなのに、エンタメの対象(芸能人とか)の為に(彼らが輝くため以上の金儲けの為に)自分の人生を捧げるというのは本末転倒ではないかと。
別に捧げるのが個人の自由なのはわかる。しかし自分の人生を捧げることで相手の変化や言動、諸々に振り回されることになる。対象が失望することをすれば憎しみや反感を抱き攻撃したり、他者から攻撃されたら自分が攻撃されたかのようになって過剰反撃の誹謗中傷をしたり、一定の線引きが保たれていれば起こらない様々なトラブルに繋がる事例が溢れている。自分が推しの従属物になって依存しているから切り離せないで振り回されてしまう。その構造はカルト宗教と非常に酷似している。

推し活に使うお金をお布施とも言う。払う方も貰う方もそんな言葉で誤魔化してる。過剰な射幸心を煽るガチャは規制されるのだから、推し活も規制まではしなくとも、程々を心がけるような注意喚起はしかるべきだと思うけども、そんなことはメディアから一切聞こえてこない。その一瞬の達成感はすぐ次の飢えと渇きであっという間に無くなるのは分かっているはずなのに、金儲けしたい奴らが多すぎて誰も何も言わない。

「推しの為に給料の殆どを費やしてます!」と自慢気に話す人物をテレビが流す。まるで最優秀ファンであるかのように。その時に依存の注意喚起なんてほぼ無く、スゴイですね~と面白がってる。カルト宗教に嵌って全財産つぎ込んでる信者には心配の声を上げたりするのに、商業主義メディアに洗脳されたカルトビジネスの奴隷には何も言わずに逆に物欲を煽ったりしている。エンタメ、メディア界のモラルコードのダブルスタンダードに、いつも気持ち悪いモヤモヤ感が漂っている。

エンタメ、メディア界がやってることはホストが客からお金を巻きあげようとするやり口と大差ないんですよね。最近やっとホストが問題化してきたので控えめになってきたけど、自分達が番組で取り上げてホストにお墨付きを与えてきたことを指摘されたくないからシラ~っと知らん顔してる。

”推し活”することを推すんじゃなくて、メディアが本当にするべきことは、いかに本当の才能を見出して世間にその価値を評価し知らしめるかであって、フェイク教祖の布教手伝いをすることじゃない。そういう意味では民放はほぼ全滅。NHKもその傾向が多々あるのでゲンナリする。

アッ、なんか愚痴っぽくなってしまった😅。

ではここで、映画「波紋」に戻ります。
「かもめ食堂」という最初の一石が起こした波紋。
それが広がっていって、荻野監督が最初意図したところとは違うところにも波及していったなんてこともあったのかも…。

「かもめ食堂」というコンテンツが勝手に独り歩き、もしくは第三者による彼らの利益のために拡大させられていき、”「かもめ食堂」のチーム”って誰やねん!?みたいな、なんかもう手の届かない、別物になってしまった感があったりしないだろうか?

そのなんだか不気味な流れに、カルト宗教の不気味に拡大していく流れと似たようなものを感じ、「波紋」において敢えてカルト宗教という設定を採用するに至った気がしないでもない。

ジェネリック作品において、”癒し”とか”優しい”とか、耳障りのいい言葉を散りばめて宣伝し、お金を集めているのが、またちょっと宗教っぽいんですよね。

私が荻野監督だったら、自分がカルト教祖を作り出すことに手を貸した、なんとも言えない複雑な気持ちになるような気もする。

で、荻野監督も50歳を超え、いままで自分が作り出してきた作品や歩んできた道を振り返った時、正気さ客観性を持ち合わせていたなら、自己批判の視点も出てきて当然だと思うわけです。

そこで「波紋」において、セルフ・パロディ、自己批判を織り交ぜつつ、世間、社会の風刺も含ませ、重層的にあの新興カルト宗教設定を取り入れたのだとしたら拍手を送りたいなと。オーレッ👏!!←「波紋」の中でずっとフラメンコの拍子がBGMで使われていたようにね😉。

そして面白いのは、私「波紋」を何度も観たいかというと、全く観たくないんです(苦笑)。逆に「かもめ食堂」は何度も観てしまっています。つまり「波紋」はおそらく「かもめ食堂」のようにカルト化はしない作品なんですよね。毒が強すぎるからw。これが「かもめ食堂」のカルト化への監督の答えなのではないかと。

ここに荻野監督が観客に媚び過ぎず、メディアミックスの金儲け商業主義から脱却した(しようとしている)作家性への転換点を感じるし、映画の最後の依子のフラメンコのように、善悪はともかく、なんだかキレがあってカッコいいぜ!!と思わされてしまった…そんな映画でした。「波紋」って。

いや、「かもめ食堂」もあれはあれでいいんですよ。
日本人によるフィンランドを舞台にした、ドイツ人が撮ったアメリカを舞台にした「バグダッドカフェ」みたいな作品があっても全然いい(多文化過ぎるw)。面白い。
好き指数では「かもめ食堂」☆8 「波紋」☆5 ぐらいですもん。

でも作家性とか話の深みとかを総合的に鑑みると、
「かもめ食堂」☆5.5 「波紋」☆7.5 といったところでしょうか。

荻上監督の次回作は、堂本剛主演の「まる」

○が迫ってくる…強迫性障害的な話なんですかね?人間の闇や苦悩と向き合う系?観た後に手で「○」🙆‍♂️と作りたくなるような映画だといいですね~。


荻上監督の「波紋」についてのインタビュー記事。

こちらの記事↓も「波紋」が「かもめ食堂」のカウンター映画だったという視点で展開されていて、共感する内容でした。


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