荻上直子「波紋」/癒しをぶち抜く身体
”癒し“という言葉が名を馳せて随分と経ったが、よく考えれば、”癒し“とはそこに傷がある前提の言葉である。傷が“癒し”によってほっこり包み込まれることは一時的に効果を出すだろうし、小さな“癒し”が人生を救うこともあるだろう。しかしその傷が“癒し”を拒むものだとしたら、どうなるのか。
セルフカウンターとしての「波紋」
「かもめ食堂」や「めがね」など、癒し系やほっこり系と形容される映画で2000年代に頭角を現した荻上直子監督の新作「波紋」は、そういったラベリングに対して猛毒を浴びせるようなカウンター映画だった。あらすじからも明白だが、映画そのもののトーンが全く違う。緊張感が桁外れなのだ。
この映画は逃避された側の映画だ。事情を抱えて現実からエスケープした主人公たちが居た初期の荻上監督作品では描かれてこなかった暗部だ。抑圧やストレスを具体的に描かず、”いまここ“に目を向けるマインドフルネス的な着想が「かもめ食堂」「めがね」だとすれば真逆のアプローチと言える。
そして逃避された側の受け皿として、本作で登場するのがカルト教団だ。家族外のゆるやかなコミュニティを肯定的に描いてきた(「めがね」では対比として薬師丸ひろ子が率いる“勉強会”が描かれていた)荻上監督が信仰を拠り所として扱う気迫は凄まじい。全ての過去作の並行世界のように思えるのだ。
荻上監督はここ2作を第2章と語り作風を変えつつあった。「彼らは~」ではトランスジェンダーの女性を、「川っぺりムコリッタ」では逃れられぬ過去を背負った男を描き、抑圧や怒りを露わにして傷を描いてきたが、「波紋」はその行き先としてセルフカウンターかのような、カルト教団を選んだのだ。
抑圧の行き場所
宗教を盲信することの問題点は抱える全ての問題が信仰へと結びついてしまう点だ。精神分析家のビオンは、欲求不満やストレスといった課題を抱えた時、それを思考できない人はそもそもその課題をなかったことにする「排泄」を行ってしまうのだと言う。そこに"信仰"がつけ込むことになれば、思考の隙など当然与えられず、そのストレスはなかったことにされてしまう。
ストレスを体に溜めると身体症状に現れ出るのは、精神分析が始まったフロイトの時代から明らかにされてきたことだ。依子が劇中で悩まされている更年期障害らしき息切れや発汗も、明らかにその前に生じたストレスが発症のトリガーになっているように見える。どこへも逃げていかず、溜め込まれた抑圧が体を蝕んでいる。そこに信仰は何の影響を及ぼしているというのか。
依子の心はまるで枯山水の庭に閉じ込められているかのようだ。水を模しながらも水がない、美しく見えて枯れ切ったその地点に依子の心はある。そして心を潤わせるために水を信仰するカルト教団に救いを求めた。しかし、ふとしたきっかけで心を通わせたおばちゃん(木野花)の助言が、依子に"水の中を泳ぐ"喜びを与え、流れは徐々に変わる。身体が心を変えていくのだ。
ありとあらゆる醜さが迸りながら辿り着く最終局面。ブラックコメディ/重喜劇と形容するしかない爆笑が巻き起こった後、この世界に再び水が注がれる。そこで彼女がとった行動は何よりも、根源的で身体的であった。抑圧された心、溜め込まれたストレスを外側へ、外側へとぶち抜くものだった。晴れて彼女は庭の外に出る。毒々しくも、華やかで、爽快感すら覚えた。
2000年代半ば、ゆるい映画やオフビートなコメディが確かに市場で存在感を示していたし、それこそ"癒し"をもたらしてくれていた。しかし、寂しいことだが作り手ももうもはや、ほっこりして何とかできる現実を描くことを諦め始めたということだろう。毒を吐くならば一滴も残さず、心を救うならまず身体を。抑えたトーンと、血走った眼で仕上げた、"傷"を見つめる1作。
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