記事一覧
貨幣の問題について、私が考えていた事
拙稿「幽霊を裁く最後の審判ラッパ」(通称「幽裁」)で、私はフォイエルバッハとマルクスの唯物論について論じた。特に注目したのが、マルクスの価値形態論である。前回の記事の考察まで辿り着いた事で、初めてもう一度貨幣の問題に取り組む事が出来る。もっと言うと、「幽裁」以後の私の思考の道筋は、拙稿における議論をより詳細に注意深く辿り直す事であった。その結果として、より高次元から以前の議論を修整する必要があると
もっとみる否定神学において、私を名指すという事?
一つ前の記事で、言語の成立と私、今の成立が同時でなければならず、更に言えば後者こそが言語の基底となる空集合なのだと述べた。と言っても仮説として提示されたに過ぎず、全てにおいて説明不足である。殆ど御託宣だ。と言っても何事も御託宣から始まる事は論を俟たない筈。
さて、言語の創出場面を考えてみたいと思い、この記事を書いている。ここでは仮説に従って、私を私によって名指す場面を考えてみよう(当たり前だが、
空集合と点って何だろうなあ?(試論)
例えば(哲学の最高峰の一つとされる)ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の根本的欠陥は、その理論が空集合と点を説明出来ない事にある筈だ。ウィトゲンシュタインは後年、言語が物質の論理像である(多分不正確な表現だが)という『論考』の哲学を自己批判するけれども、私がこれから説明する問題に気付いていたのだろうか?(否定絵が描けない、等といった事は本質的ではない。それ以前に空集合を描く事が出来ないのだ。無
もっとみる《金》と規律訓練、その失効。『千のプラトー』と《管理》、「現代貨幣理論」
ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』では、奇妙なことに、《戦争機械》と《不換紙幣》の関連が問われていない。意図的がどうかまではわからないが、このために議論が混乱してしまっているのである。
《戦争機械》が、《遊牧》、なかんずく「モンゴル」に代表されるならば、当然、その偉大なる達成、《不換紙幣》の確立にふれざるをえないはずだ。
たしかにモンゴルが《不換紙幣》を発行するのは、オゴタイの時代、金帝国を滅
超新説!シュティルナーは構造主義だった!?
ドゥルーズに「何を構造主義として認めるか」というテキストがあるが、そこで構造主義の七つの規準が挙げられている。以下がそれ。
➀記号界➁局所あるいは位置➂微分と特異➃分化させるもの、分化すること➄セリー➅空白の枡目⑦主体と実践
おおざっぱにいって、ほぼすべてシュティルナーは先取している!たとえば、シュティルナーの《幽霊》は、空白の枡目であり、対象=xと考えてよいと思う。むろん、その《幽霊》は、諸
柄谷行人はホントに「外部の人間」だったのか?
笠井潔と柄谷行人は一時期接近し、対談本まで出版している。笠井の柄谷評価は、『外部の思考・思考の外部』所収の論考にみられる。その評価は、一言でいえば柄谷が「外部の人間」だということだ。
「外部の人間」とは、秋山駿の「内部の人間」(内部にひきこもる近代的自我一般のことだろう)をうけたもので、内在しながらも不在の〈外部〉(これは内部にたいするものではない)に祈る主体のことだ。
笠井は、『内省と遡行』
剰余価値は存在しない
現代貨幣理論の命題の一つは、「剰余価値は存在しない」ということだろう。当然のことだが、誰かがΔGの利潤をえたとき、一方でΔGの損失(-ΔG)をこうむる。だから、ある主観での剰余価値(あるいは損失)は存在するとしても、構造としての剰余価値などどこにもないのだ。
だから資本制は剰余価値に秘密があるのではない(資本「主義」にとって、剰余価値の神話が必要だとしても)。たとえば、柄谷行人『マルクス その可
進撃の巨人、テン年代から20年代へ
ここさいきんは大真面目に『進撃の巨人』が語られているようだけれども、わたしにとって『進撃の巨人』はMAD素材として受容されていた。テン年代初期の代表的MAD素材・アニメ『デスノート』終盤(いわゆる「バカヤロイド」)の後継者として、ネタとして消費されるものとしてあった。
『デスノート』と『進撃の巨人』(Season3まで。正確に言うとSeason2からは総監督)は周知のように同じ荒木哲郎監督作品で
ゼロ年代、二つの思考―笠井潔と東浩紀
わたしは昔からゼロ年代批評なるものから笠井潔が抹消されていることに深い憤りを感じてきた。というわけで、いつかはその史観を徹底的に粉砕する論考を書きたいと考えている。
個人的に、ゼロ年代思想は東浩紀と笠井潔の対立にこそあると思う。とりわけ、両者からハイデガー批判が提出されたことがわかりやすい。
東浩紀の「否定神学」としてのハイデガー批判と、笠井潔の「否定神学」からのハイデガー批判。たとえばさいき
現代貨幣理論/アメリカ帝国主義の必然と金本位制の崩壊
現代貨幣理論では、小国ははじめ固定相場制(ドル本位制!)にはじまり、やがて変動相場制=主権貨幣(Sovereign Money)に移行し、自立するというストーリーが描かれるが、これはアメリカ帝国主義だろう。
しかし、これの対抗軸としての金本位制は、ブレトン・ウッズ体制=冷戦の崩壊からすでにして潰えている。これはまた、ファシズムやボルシェビズムの失効でもあるだろう。それこそが、ポスト・モダンだった
物神論の肥大―絓秀実『革あ革』について少し
絓秀実の六八年論の理論的骨子はラカンであり、なかでも物神論が大きくとりあげられている。なぜ、物神論がかくまで肥大するのか。
それは商品貨幣論を、あくまで絓が保持しようとするからではないか。マルクスの価値論を、商品に憑かれることとして救出すること。これこそが、『革あ革』をつらぬく絓の意想だろう。
しかし、六八年の帰結は、金本位制の崩壊にある。商品貨幣論が崩れさった先の世界こそが、ポスト・モダンで
シュティルナーと市民社会
シュティルナーは『唯一者とその所有』後半部において「唯一者」の「連合」を提起しますが、その実態は明示されません。原則としては、自我を制限することなく、その自我のために自由だけを制限するようなものが「連合」とされます。
さて、シュティルナー哲学の画期性は、フォイエルバッハが提示しながらも疎外論に解消した、弁証法の外部の存在論的問いにあるでしょう。「唯一者」というのは、たんなる自我ではなく、存在を廃
いいMAD
テン年代(わたしは2008-2016と定義します)の雰囲気がつまっているような気がします。なつかしいですね。韓国のかたの合作MADのようですが、あっちのMADシーンはどうなっているんでしょーか
https://www.nicovideo.jp/watch/sm40139496
鵜山ユウジです。よろしくお願いします
以前までは同じ名でTwitterをやっていたのですが、いろいろと面倒になりアカウントを削除しました。とはいえ一応ネットとのつながりは保とうと考え、Noteを開設した次第。生存報告くらいはしていきます。
かんたんに自己紹介すると、2021年に外山恒一氏の主催する合宿を卒業後、なにかせねばと「サークル 教養強化」や「革命的セカイ系主義者同盟」などやったのですが、さいきんはもっぱら自分の思索に閉じこも