《金》と規律訓練、その失効。『千のプラトー』と《管理》、「現代貨幣理論」

ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』では、奇妙なことに、《戦争機械》と《不換紙幣》の関連が問われていない。意図的がどうかまではわからないが、このために議論が混乱してしまっているのである。

《戦争機械》が、《遊牧》、なかんずく「モンゴル」に代表されるならば、当然、その偉大なる達成、《不換紙幣》の確立にふれざるをえないはずだ。

たしかにモンゴルが《不換紙幣》を発行するのは、オゴタイの時代、金帝国を滅ぼしたのちであり、それは《帝国》の紙幣制度を継承するものであった。《戦争機械》の範例をチンギス・ハンにみるならば、ぎりぎりのところで、議論が成立するのかもしれない。とはいえ、《不換紙幣》への飛躍を担うのがモンゴルである以上、問いは回避されえないだろう。

ドゥルーズ=ガタリの議論では、《戦争機械》と《帝国》の区別が説得的ではない。さらにいえば、《国家》と《帝国》の峻別も曖昧模糊としている。

とはいえ、不明瞭ながらも、『千のプラトー』の時点でドゥルーズ=ガタリはじしんの議論のナイーヴさに自覚的なように思う。さらに、晩年のドゥルーズは、かかる《不換紙幣》の問題系に気づいていたようだ。その管理社会の議論にいおいて、である。

「規律社会と管理社会の区別をもっとも的確にあらわしているのは、たぶん金銭だろう。規律というものは、本位数となる金を含んだ鋳造鋳貨と関連づけられるのが常だったのにたいし、管理のほうは変動相場制を参照項としてもち、しかもその変動がさまざまな通貨の比率を数字のかたちで前面に出してくるのだ。旧来の通貨がモグラであり、このモグラが監禁環境の動物だとしたら、管理社会の動物はヘビだろう」(「追伸——管理社会について」)

この指摘はきわめて重要である。ドゥルーズは正しく、《金》と《規律訓練》、《不換紙幣》と《管理》の関連に気づいている。だからこそ、かれは《戦争機械》が《不換紙幣》をもたらしたのだといわなければならなかったはずだ。六八年とニクソン・ショック。その最大の革命は、《戦争機械》=《不換紙幣》による、《金》の破壊であったのだと。この観点にたってはじめて、「現代貨幣理論」の核心にせまりうるのである。

《金》という象徴を措定しうる、換言すれば自由民主主義をおこないうる、等質的で自立的な《人間》(平田清明でいえば《個体》)は、周知のように規律訓練によってしか産出しえないのである。かかる《人間》を素朴に信仰するフォイエルバッハ=マルクス的な水準など、とうに破壊されているのだ。

さて、この関係の詳細については、現在執筆中の原稿において詳細に論じられることとなろう。浅田彰=東浩紀の「伝統」(?)に則し、「クラインの壺」のモデルを用いて、それはこころみられる。

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