空集合と点って何だろうなあ?(試論)

例えば(哲学の最高峰の一つとされる)ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の根本的欠陥は、その理論が空集合と点を説明出来ない事にある筈だ。ウィトゲンシュタインは後年、言語が物質の論理像である(多分不正確な表現だが)という『論考』の哲学を自己批判するけれども、私がこれから説明する問題に気付いていたのだろうか?(否定絵が描けない、等といった事は本質的ではない。それ以前に空集合を描く事が出来ないのだ。無理に描こうとした物が点である。)

空集合と点は、どう考えたって論理像ではない。私達は、五感の全てを駆使しても空集合と点を物質の中に見付ける事が出来ない。(点は普通、極々小さな黒鉛の塊やインクの染みといった物に対応付けられるけれども、それは明らかに大きさを持っている。)この問題の重要さは測り知れない。何故なら、私達の言語は、恐らく空集合無しには存在し得ず、さらに踏み込んで言えば、空集合と共に創出されたものだろうからだ。(補足すると、空集合が物質から得られる、というのが唯物論の主張だろう。唯物論はフォイエルバッハに始まるが、その哲学はラッセルやウィトゲンシュタインに継承され厳密化されたと見るべきだと思う。ぬかるみ派所収の拙稿は唯物論の定義すら覚束ないものだった事、深く反省している。とは言え、徹底した観念論から出発しなければならない、という考えに変わりはない。観念論、あるいは心身二元論は哲学の前提だろう。)(ここで観念や心を持ち出してみたが、どうやら私が想定する観念、心、意識といったものと世間様の、もしくは一般的な議論におけるそれらとは大分定義、あるいはイメージが違うらしい。私の思う観念、心、意識には何らの実質を持たないスカスカしたものである。どうやら普通、観念、心、意識には物質や身体と違う実質を持ったものとして捉えられている様だ。)

この哲学的問いは、多分ライプニッツの『モナドロジー』において初めて把握された(もっと言うとプラトンの「イデア」がそうなるが)。しかし、その意義はどうにも忘却された様に見える。バロックの神秘的な世界観、といった受容が一般的でこれこそが真の哲学的問題なのだという事が理解されていない。ライプニッツが微積分の創始者である事は示唆的で、微積分とは正に点をその基礎としている。(微分やライプニッツと言うとドゥルーズが有名かも知れないが、さて「モナド」の問いは何処へ行ったのだろうか。モナドを機械(先程の言葉で言えば物質)に見付ける事が出来ないというライプニッツの洞察だけで、『アンチ・オイディプス』は丸っきり否定されてしまうだろう。)

(私の感情、思考、記憶……といった物は、単に物質であると言って構わないだろう。例えばこの文章全ては単に私の脳によって考えられているし、そして神経を伝って手が動かされ、noteの記事に書き出されている。ただし、この私は、物質と結び付かないのだ。そうでない様に言語が作られているからである。これは神秘ではなく事実だ。)

(「モナドは事物(複合体)の要素である」というライプニッツの洞察が、『論考』において見落とされたのは不可解である。『論考』の言う対象及びそれを指す名前の理論では、繰り返す様にモナドを説明する事が出来ない。と言ってもライプニッツの思考は、原子論、即ち唯物論へと傾いているのだが。しかし、モナドを問わないウィトゲンシュタインは、矢張り後退してしまっている。もっと言えば、フォイエルバッハの唯物論からも劣化しているかも知れない。より緻密になったとは言え、である。)

恐らく哲学と数学(基礎論)を分かつのは、モナドの問いの有無であろう(だからこそ、ライプニッツは哲学である)。数学は絶対にその原初としての空集合・点を不問に付す。それが数学の生命線だからだ。ユークリッド幾何学が疑われたのは、第一の定義に当たる点ではなく、平行線公準であった。数学に自然主義や直観主義といったものが入り込む余地があるのは、空集合と点の無根拠性にある様に思える。自然及び直観を源泉にして、空集合と点が得られたというストーリー。

では空集合の定義とは何かというと、φ={x|x≠x}になる。要するにx≠xとなる要素が存在しないという事だ。しかし、実を言うとこれは存在する。私と今の二つだけがこのxに当て嵌まるのである。

ここでは詳細な説明は省くけれども、先ず私と今が空集合・点になっている事が前提である。(今の場合、時計を思い浮かべて頂くと分かり易い。針が指すのは常に点である。私の場合、例えば私と脳を結び付けたとして、全く同じ内容の脳を持った他人が、同じ様に脳と私を結び付ける事が考えられる。よって、その脳を私は要素として持ち得ない。)とすると、私(と今)の相互の区別は如何にして行われるか。それは、私≠私(今≠今)という私(今)によってだろう。

「しかし、それもまた私(今)の一要素となってしまえば区別が付かない事になりやしないか」。こういう反論が当然あると思う。これへの応答については少し大胆な仮説を用意している。これまでの議論は概ね正当にしても、以下の物がそうかは分からない。

ここで私が注目したいのは、ゲーデルの不完全性定理である。(ゲーデルと言うと柄谷行人、という向きが未だにほんの少しだけあるかも知れないが、私の理解と柄谷のものは丸っきり逆。多分柄谷の議論は大森荘蔵を下敷きにして、それを唯物論的に改竄したものだ。){私|私≠私}とは、「私によって証明できない私」という決定不能命題になっているのではなかろうか(今の場合も同じ)。言語においてはこの様な位置付けで、唯一の現実性としての私と今の場所が確保されているのではなかろうか。決定不能命題であるが故に、言語の体系内において、互いに同一だとかそうじゃないとかも言えない筈である。従って、それを唯一の要素とする私達(今達)の区別が可能なのではないのか。(この議論と似たものに永井均の累進構造があるけれども、しかしこれらは決定的に違っている筈だ。永井の言う山括弧は、突出と平準化の間を揺れ動く。これを永井は、ヨコ問題とタテ問題とか、キャロルのアキレスと亀だとか言って記述している。私の主張は、突出も平準化も不可能なものとして現実性は言語に埋め込まれているんだ、という事だ。それも言語の根源に。そう考えるので、私は累進構造やヨコ・タテ問題を重要だと考えない。)

こう考えると、言語は単独での獲得が可能でなければならないし、実際そうである事が分かる(私見では、これがシュティルナーの根本的な洞察である。これに関してぬかるみ派所収の拙稿の議論を訂正する必要がある。この点を掬い取れなかった点で、拙稿は殆ど無意味なものに過ぎないと言えよう)。何故なら、例え既存の言語使用者からの教育によるアシストがあったとしても、結局の所空集合を作成するのは私なのだから。ここで他者は不要である(加えて神が介在する余地は一切無い。また受肉というメタファーもここには通用しない。肉体は前提条件でしかなく、そこから言語が創出されるのだ。これを逆転させてしまうと受肉になる)。これが一見不可能な様に見えるのは、単に私達人間が馬鹿だからだろう。全知全能は、言語を成立させた瞬間に、哲学と数学の真理を洞察する筈だ(私の書く文章もお見通しに違いない。その正否も含めて)。

私達の世界は、現実・集合・物質という三層の構造を持つ。私がここで簡単に述べたのは、現実と集合の関係だ。冒頭で言及したウィトゲンシュタインの哲学は、集合・物質にしか届いていない(家族的類似性とか典型的だろうか)。(『〈私〉の哲学をアップデートする』で永井均と青山拓夫が、言語と意識を巡って議論していたけれども、集合においてそれは解決されると思う。また入不二基義が現実性と空集合を結び付けているけれども、これは単に誤りだと思う。そもそもの空集合って何なんだよ、という事を先ず考えなければいけない筈。余談だが、〈φ〉という表記を入不二はしていて、これだと空集合を要素とする集合を指す事になってしまう。)

最後の三段落については試論に留める。これらの展開は、多分次号のぬかるみ派に書くつもりですので、よろしくお願いします。

更に補足(度重なる追加で、本文は公開メモの様相を呈している)。永井均(と言うか入不二のと言うか)の無内包について。無内包は、一応の所ここで問題にしているモナドに相当していると言って良いかと思う。ここで私が問題にしているのは、実はそれが無を内包しているのではなく、唯一性を否定の形で内包しているのだ、という事である。この唯一性は、私が元来笠井潔の問題意識を引き継いで「外」と呼んできたものである。要するに、無内包≒モナドは、その外側を内包したものなのだ、というのが私の主張だ。この外は、マイナス内包と似ているし、恐らく重なったものだろうが、後者は問題を外しているとも思う(これについてはここで論じないが)。そう考えると、否定神学の意味も見えてくる事だろう。笠井が度々言う様に、「たった一人で神に祈られなければならない」。これは、私というモナドに否定性において外が埋め込まれている事態だろう。そしてそこに観念の浄化を見るのである。

また、この意味で言えば、内包とは無内包に始まる。私は内包を集合と呼ぶが、どちらでも良い。永井は第一次内包を基準とするが、実は内包は無内包に始まる、というのがここでの主張だ。そしてそれとは別個に物質がある。物質と対応付け不可能なのは、空集合である。その対応付けの無理を押し通したのが点であろう。私や今は、物質において点として表されるのである。

またまた補足。否定神学について。永井均はアンセルムスと自身の問題を接続しようとするが、これもまた誤りだろう。アンセルムスが問題にしているのは、数学で言えば無限の問題だ。無限にもより濃度の高い無限があり、その行き着く場所が神であり、存在を含むというのがアンセルムスの主張である。これは偽の問題設定だろう。少なくとも哲学的には(あるいは神学においても)。無限ではなく、真に不思議なのは零なのであって、そこに埋め込まれた「外」である。正確に言えば、そもそもの零こそが物質的な存在を超えたものであって、無限はその派生物に過ぎないのだ。ここに否定神学の妙味があるが、どうにもこれは世間ウケが悪く、体制的な思考には受け付けないものらしい。私はこれ以上に重要で、琴線に触れるものを知らないのだけど。


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