シュティルナーと市民社会

シュティルナーは『唯一者とその所有』後半部において「唯一者」の「連合」を提起しますが、その実態は明示されません。原則としては、自我を制限することなく、その自我のために自由だけを制限するようなものが「連合」とされます。

さて、シュティルナー哲学の画期性は、フォイエルバッハが提示しながらも疎外論に解消した、弁証法の外部の存在論的問いにあるでしょう。「唯一者」というのは、たんなる自我ではなく、存在を廃滅した主体、外部の主体として設定されています。これをたとえば他のヘーゲル左派や、のちには廣松渉のように類にたいする個として理解するのは誤読にほかなりません。

そもシュティルナーは初期の論文では、教育による自己の陶冶を問いています。『唯一者』でもたんに欲求や本能に左右される主体は徹底的に拒否されます。そのような意味で、「唯一者」とはニーチェの「超人」とは異なったものです。

シュティルナーの限界は、「幽霊」に憑かれることそのものを主題にできなかったことでしょう。これはのちの思想の課題とされていくものです。シュティルナーは、「幽霊」の問題を「人間」への規律訓練の問題に矮小化しているところがあります(これはバウアーの批判であり、かつての自身への批判でもあるでしょう)。こちらも画期的といえますが、みずから開いた地平を十全に活かしたとはいえません。

平田清明が市民社会の基礎に労働者ではなく「個体」を置いたとき、それはマルクスというよりも、シュティルナーへと接続されるものではなかったのか。「個体」は、アプリオリに設定される「規律訓練された主体」ではなかったか。その論理を明示的にしめすのが、平田市民社会論を継承した笠井潔『国家民営化論』だと考えています。そしてそれはその破綻をしめすものだとも。

というようなことを「ぬかるみ派」の原稿では書こうと思うのですが、どうでしょうか。


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