超新説!シュティルナーは構造主義だった!?

ドゥルーズに「何を構造主義として認めるか」というテキストがあるが、そこで構造主義の七つの規準が挙げられている。以下がそれ。

➀記号界➁局所あるいは位置➂微分と特異➃分化させるもの、分化すること➄セリー➅空白の枡目⑦主体と実践

おおざっぱにいって、ほぼすべてシュティルナーは先取している!たとえば、シュティルナーの《幽霊》は、空白の枡目であり、対象=xと考えてよいと思う。むろん、その《幽霊》は、諸幽霊へと分化し、それぞれ各セリーへとわかたれるだろう。ここらへんは、デリダも強調していた気がする。

あと、周知のように、フーコーの議論はだいたいシュティルナーの後追いである。「人間」の終焉なども、もとはといえばシュティルナーがいっていたことだし(というか《人間》という《幽霊》を滅ぼすものこそが〈唯一者〉だったわけだ)、くわえて生権力だとか、監獄だとかもむろんそうだ。引用してみよう。

「人類は自らを発展させんがために、諸国民と諸個人を人類への奉仕にこき使い、そして、人類の必要とすることを仕とげてしまったあげくには、彼らは感謝をこめて歴史の肥え溜めに放りすてられてしまうのだ」(『唯一者とその所有』)
 
「……すでに何千年来、「非人間」、すなわちとにもかくにも「人間的本質」に適合する当のものに、自ずから適合しようとしなかった人々は、監獄を住まいとされたほどなのだ」(「シュティルナーの批評家たち」)

ようするに、《幽霊》のために、ひとはこきつかわれ、死へと廃棄されたり、監獄にぶちこまれるってこと。

しかし⑦主体と実践だけは、シュティルナーは満たさない。ここがおフランス野郎との格の違いをみせつけるべきところだ。

「だからこそ、先に「事件」と呼んだことが構造に到来するのは、決して外部からではない。反対に、問題になるのは、内在的な「傾向」である」(「何を構造主義と認めるか」)

まあ、シュティルナーも「事件」をかように定義することは首肯するだろうが、これをポジティブにはあつかわないはずだ。そんなもんゴミ、というのがシュティルナーの一貫した態度なのだった。

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