貨幣の問題について、私が考えていた事

拙稿「幽霊を裁く最後の審判ラッパ」(通称「幽裁」)で、私はフォイエルバッハとマルクスの唯物論について論じた。特に注目したのが、マルクスの価値形態論である。前回の記事の考察まで辿り着いた事で、初めてもう一度貨幣の問題に取り組む事が出来る。もっと言うと、「幽裁」以後の私の思考の道筋は、拙稿における議論をより詳細に注意深く辿り直す事であった。その結果として、より高次元から以前の議論を修整する必要があると感じている。

前々回の記事で、私は唯物論を「空集合を物質に還元する事」であると言った。これと貨幣の問題が関係するのは、貨幣の本質が数字であり、数字とは空集合を零として産出されるものだからである。前回の記事で述べた様に、ロドス島は私を名指す事であり、その瞬間に空集合が成立する。とするなら、そこで初めて私達は、数を手に入れるのである。この数字によって価値を測定する事こそが、貨幣の原基である。

私が拙稿で散々批判したのは、この貨幣=数を金と結び付ける思考であった、という事になる。しかしこの問題は別に貨幣に限った話ではなく、より普遍的に言えば、「空集合を物質に還元する事」の批判になる。この意味で、以前の議論は発展的に解消されたと言える。

唯物論の破綻は、空集合が物質に還元する事がそもそも不可能である事から自明である。明々白々だ。であるから、唯物論は色々と破綻した議論を捏ねくり回す羽目になる。その一例が価値形態論だ。まず唯物論が認めなければならないのは、空集合(価値形態論では貨幣、あるいはフォイエルバッハの場合は神)の存在である。少なくとも現在空集合が存在してしまっているのは事実であって、これは唯物論も認めざるを得ない。ここで持ち出されるのがやがて到来する「共産制」である。「共産制」とは、空集合が物質へと還元された状態の事だと解釈出来る。

では、このブルジョア社会に空集合が存在し、人々が疎外されているのは何故か。それは、人々がその空集合を措定したからである。と言っても、それは物質と表裏一体の形で。これが価値形態論の金の措定段階の事であり、貨幣=金が示される場面である(ここがマルクスにとってのロドス島だ)。一見、空集合が存在している様に見えるけれども、それは実は人々が措定したものであって、しかもそれは実は物質なのである。その為に、人々(労働者)が主体となって、いつか共産制が到来するのである。

こういった捻じくれたロジックを披露する必要が唯物論者にはある様子だが、結局これは空集合の存在自体に論破されなければならない。単にそれだけなのであって、唯物論とは初めから破綻しているのだ。未だに唯物論に一定の人気があるのは、人間が馬鹿だからだ、としか言い様がない(無論唯物論への批判も、大方知的水準として同類である)。

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