否定神学において、私を名指すという事?

一つ前の記事で、言語の成立と私、今の成立が同時でなければならず、更に言えば後者こそが言語の基底となる空集合なのだと述べた。と言っても仮説として提示されたに過ぎず、全てにおいて説明不足である。殆ど御託宣だ。と言っても何事も御託宣から始まる事は論を俟たない筈。

さて、言語の創出場面を考えてみたいと思い、この記事を書いている。ここでは仮説に従って、私を私によって名指す場面を考えてみよう(当たり前だが、この私とはIでもJeでもIchでも何でも良い。しかし、一人称が無い言語って有るんだろうか)。

単に私という言葉で、「この私」を指してみるとどうなるだろう。これで全てが終わる様に見える。議論の余地等無かろう。しかし、良く考えればこれが上手く行かない事が分かる筈である。何故なら、単に「私」という言葉で自分を指してしまえば、他の人物が「私」という言葉を使用した時、区別が付かなくなってしまうから。別にそれでも良いではないか、と思う方も居るかも知れない。しかし、ここで問題にしているのは私達が現に使用している言語なのであって、ここでは私の区別は「現に」有る。

では、私という言葉の後で、直ぐ様それを否定する新たな言葉を作ったらどうか。例えば「端的な私」という様に。しかし、この論理で行くと、「端的な私」も直ぐ様否定されなければいけない事になる。これを続けると、「端的な、端的な、端的な、端的な……端的な私」となって終わりが無い。これでは言語を始める事が出来ない(余談だが、永井均が問題にしている累進構造とは実はこの事だと思う。ここでは敢えて永井用語の「端的」を使ってみた)。

じゃあ、実際「私」という言葉はどう創られるのだろう。多分その唯一の方法は、私の中に否定性を持ち込む事である。私とは{私|私≠私}である、と。兎にも角にも、この構造において私を捉えたのである。これ以外考えられなさそうだ、というのが暫定的な結論になる。これは伝統的には否定神学の問題系の筈だ。ここら辺についてはまた別で。(正に「ここがロドスだ、ここで跳べ」。マルクスはロドス島の位置を決定的に見誤っている。商品交換や社会契約は二次的な問題なのであり、本源的なのは私と今を名指す事である。そしてそれは、唯この私にしか為し得ない。ここに他者は介在しない。)

(多分『精神現象学』のヘーゲルが自己意識の章で論じたかったのはこの事だろう。そしてこの自己意識に注目し、ヘーゲルを超えんとしたのがバウアーであり、その最果てにシュティルナーが居る。勿論、不幸な意識が解消される事は無いのである。)

(私達の用いる言語とは何だろうか。別に人間に限らず、動物はそれに似た行動をする。例えば、餌の在り処を群れに伝えるだとか、あるいは危険を知らせるだとか。あるいは求愛は、生殖能力を異性に伝えるものであろう。多分、そういった動物に出来ないのは、私と今を創出する事だろう。恐らく、それだけが出来ないのである。)

(最後にもう少しだけ補足。永井均の「一方向性」や「受肉」について。「一方向性」と「受肉」は永井哲学の最大の達成だと見做されている様だけれども、本記事の観点からすれば単に誤りである。「空集合」とは、「私」と「今」を名指す事に始まる。この「名指し」を表す為には、「一方向性」や「受肉」という語では不適切である。そもそも永井の場合、初めから「私」や「今」という語があって、それから逃れる為に山括弧の〈私・今〉や「端的な私・今」といった表現が使われるが、それではそもそもの「私」、「今」の成立が理解出来ない。兎にも角にも、私と今は名指されなければならないのである。他のあらゆる語とそれは同じだが、しかし違った方法で行われなければならない。そしてそれはどうにも行われたらしい。ここがロドス島である。)

(更に更に補足。「私は私ではない」とルサンチマンの類似について。ニーチェの言うルサンチマンは、平凡に取れば単なる人間の脳の傾向の指摘に過ぎない。が、哲学的に取ろうと思えば、それは「私は私ではない」事に淵源した問題だとも言える。「私は私ではない」は、実在的に見ればルサンチマンの様に見えるかも知れない。それは私が脳である様に見える事と相似である。ニーチェは、「私は私ではない」という言語的真理に反対したのだ、と取れる。永井が結局「私は私である」の水準から抜け出せないのは、多分ニーチェの影響が大きいのだろう。と言っても、この否定神学的事実をルサンチマンとして片付ける事は、ニーチェに反して出来そうにもない。初めから否定神学に惹かれ、魅了されてきた私には、多くの人がそれに無関心だったり、嫌悪を覚えたりする事に素直に驚いてしまうのだが。否定神学って、素朴に格好良くないかな?)

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