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#8 最悪の結論

春になった。
宗教の勧誘が活発になる季節だ。

上京する人が増え、それぞれに悩み多き季節になり、宗教も自己啓発セミナーも、信者、信徒、入会員を増やすべく布教・広報活動に勤しんでいることだろう。

つい先ほども、仏教系の某宗教団体の勧誘者がピンポン鳴らして訪れた。20代後半くらいのかわいい女の子二人組だ。

こうした勧誘でどの団体も共通しているのは二人組であること。一人ではトラブルが起きたときに対応しづらい。勧誘者が女性であることが多いのは、突撃訪問への警戒心のハードルを下げるためである。結果として、(男女ペアもあるが)「若い女性二人組」であるケースは多い。そのため、どの団体であれ、この時期の「若い女性」は宣伝広報・布教活動に駆り出されることになる。大忙しだろうなと思う。

勧誘が来たときに決めていることは二つ。一つは、「頭ごなしに断らずに話を聞くこと」。もう一つは「信仰を否定しないこと」である。付け加えるなら、入会入信はしない。

今日も、こちらが宗教専門のジャーナリストであることを知らずに訪れてしまった某団体の若き信仰者から、2時間も話を聞いた。キラキラと瞳を輝かせながら、教科書通りの(「教え」に則った)専門用語を交えながら、自らが信じる教えの素晴らしさを語ってくれた。

僕は、彼女たちが「なぜ」「どのように」いまの信仰を持つにいたったのか、また「現状をどう思っているか」など、知りたいことがたくさんあるので、話を聞きつつ質問も挟んでいく。
論争は希望していないから、歴史や経典内容などにはツッコミは入れない。歴史などはこちらのほうが詳しいことも珍しくないけど、流行りの「論破」はダサいからやらないほうがいい。

ときおり具体的なエピソードも用いながら、彼女たちが「絶対視する教え」を相対化できる質問を投げる。信仰を否定せずに相対化するのは難しい。関係性を構築しつつ、うまくコミュニケートしないといけない。相手の話を認めながらスライドさせて、冗談を交えながら別案(異なる教え等)をイメージしてもらう。今日はラーメンやオムライスを喩えに使った。

意地悪したいのでも喧嘩したいのでも脱会させたいのでもない。その場で、「なぜ自分がその教えを信じているのか」を改めて考えてもらって言葉にしてもらうのを期待してのことだ。

単純に情報を得るためでもある。そもそも各信者が、なぜ、どのような動機で布教活動に専心しているのかは、ジャーナリストの端くれとして興味惹かれるところではある。それに語りを聞くなかで、その団体が「布教のために特に重要としていること」も教えてもらえて、学びになる。

たまに布教の仕組みや当該団体の裏のカラクリまで話してくれる人もいるけれど、ここに「二人組」であることが効果を発揮する。二人組は性差や年齢でペアリングされているだけではなく、信仰の度合いによって組まれている面もある。信仰心の薄い信者は、必ず篤信者とペアになる。僕のような人間に当たってしまったときに揺らいで脱会してしまわないために、余計な情報を漏洩しないために。今日の人たちも、一人の女性は最後まで「教科書通り」から揺らぐことはなかった。

とはいえ、信仰理由を問いながら2時間も話していると、いろいろなリアクションが起こる。

そもそも「なにか/誰かを信じる行為」は思考をストップさせることである。「そういうことにしておく」「そういうものだ」と、それ以上自分で思考することをやめて、括弧に入れる。それ自体は誰もがあらゆる事象に対してやっていることだが、その因果や帰結を宗教者や経典に求めると「信仰」になる。

勧誘者との会話のなかでは、さりげなく、思考がストップしている部分を問い直すことで、自問自答してもらうきっかけを作る。その作業をすることなく育った人もいるので、玄関口で実存が揺さぶられてしまう人もいる。二人組を解消したあとで、(脱会などの)相談に来る人もいないわけではない。逆に、言葉にしていくなかで、「自らの信仰の正しさ」の確信を強める人もいる。

少なくとも、これまで考えてこなかったポイントをその場で考えて言葉にして、さらに「正しいもの/こととして主張してもらう」ことは、話す側も聞く側(問う側)も学びに溢れている。
それに、「なぜそれを信じているのか」「なぜ正しいと思うのか」「なぜそれが(僕や他人にとっても)必要なのか」を一緒に考えていると、「入会・入信してね」というゴールに帰着することは、まずない。だいたいは問いだけが残る。問いは学びの入り口だ。

勧誘に訪れたのに逆取材されることになり、我が家に来た方々には常々申し訳ないなと思う。いやーな蜘蛛の巣に引っかかっちゃった思いを抱いている可能性もある。(一応自己弁護をしておくと、これまで喧嘩になったりトラブルになったことは一度もない。楽しく帰ってもらうためにおもしろ話もたくさんするし、「学ぶ姿勢」と「仲良くなりたい気持ち」を崩すわけじゃないから長話はだいたい盛り上がっている。)

「宗教勧誘者・セミナー勧誘者をもてあそぶ悪趣味」だと思う人もいるかもしれないが、僕は毎回、「信じることとはなにか」「信仰とはなにか」を一緒に考える場だと思って勧誘者たちと話をすることにしている。だから「もてあそぶ」のではなく「まなぶ」だけだし、「絶対的なるナニカ」があったほうが人生は豊かに自由に暮らせるのではと自問することも多々ある。

「もし逆の立場だったら…」「自分が勧誘者で僕のような人間を口説かないといけなくなったらどうするか?」も、同時に考えながら話しているので、たまに「こう言ったら、いけるんじゃない?」と攻略法が思いついて勧誘文句をアドバイスこともある。

そうして「自分が信じるもの/ことを相手に伝える難しさ」を毎度ひしひしと感じている。


出版活動は布教活動と同じだろうと思う。

著者の主義主張を言葉にして、文字に起こして、印刷して、伝える。だから小社のホームページではあえて「人類学を布教する」と謳っているのだが、これからも、自分が信じるもの/ことを読者に伝えるハードさを宗教・セミナー勧誘者から教えてもらいながら、学びながら、本を作っていかなきゃなぁと自省した。

なかなか入信・入会しない(=本の内容を信じない)被勧誘者(=読者)を想定しながら、いかに説得性のある本を編んでいけるか。
編集者としては、猜疑心の塊人間でいることがまずは大切なのだろうと、いまは思う。

最悪の結論に落ち着いた。


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