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うたふ兎🐇宇治 君秋
2024年6月29日 07:04
ぼくはおかしいと思うことには声をあげるよりもそれが変わる方向に少しでも進むように体を動かす方です。腕力なんてないのですが柔道みたいに世の動きの流れを利用します。全く黙っているのではないです。うまく説明できませんが腕力になる言葉の使い方があります。
2024年6月24日 05:21
雀に手招きしても寄って来ないのはぼくをきらいだからではないです。ほかの人に書いたものを読んでもらえないのもぼくをきらいだからではないです。みんなに都合があります。相手の都合を知らないで言葉を差し出すのですからしかたないです。好きという言葉はとりわけ。
2024年6月14日 05:56
言葉はなんでも言えるようでじつは選ぶのに工夫がいります。でまかせは工夫が極端に少ないものです。うわ言には工夫はないでしょう。工夫とは仕上がりを想像することです。それは技巧ではないです。なにかしら迷いながら表せばそれは工夫だと思います。
2024年6月9日 06:37
声を出して歌をうたうというのは言葉が身体を取り戻すことだと思います。詩歌は歌曲からメロディーを去ってなお言葉が身体を回復しているという際どいところのものです。演劇と物語の関係も同様でしょう。演劇から演技を去った際どいところに物語が成り立つのだと思います。
2024年5月26日 06:49
言葉と身体との関係を考えるうえで舞踊や音楽のアーティストの話はとても有益です。生きた身体が意志によってどんな表れ方をするかが重要なようです。生きた言葉が意志によってどう語られるかが重要なように。表れる前の身体や語られる前の言葉はどこかで待っているのです。
2024年5月19日 06:53
人間は言葉を知って語り始めてから実に長い長い話をし続けます。声で、体で、文字で。時に独り心の中で。文は人なりといいますがむしろ人は文なりといいたくなるほどです。文の外にある世界は人間にはわからないのでとりあえずは置いておいていいような気がしています。
2024年5月17日 06:35
芭蕉は言葉で風雅の誠を取り出したのでしょうか、それとも言葉で風雅の誠を作り出したのでしょうか?言葉の前に認識があるのか、言葉の後に認識があるのか?その堂々巡りの外に目を向けます。認識と言葉とはいずれも今より一瞬遅れているのでしょう。
2024年4月30日 06:27
言葉は一つの意味に人を閉じ込めないでみんなに開かれています。隠喩を追いかける人はもとの意味を知ろうとします。ぼくはその一人でした。たぶん意味から隠喩が生まれるのでなく、ある言葉から別の言葉に飛び移っているのです。そのある言葉だって幾通りもあり得るのです。
2024年4月22日 06:51
自分の詩歌は言葉のサイコロ遊びだとひそかに悩んでいました。自分は大真面目なのにどうも軽い。しかし感情や意味の押し付けだけはないことに気づいて少し安心しました。言葉をポンと存在させればあとは世の中のものです。泣きながら吹いてもシャボン玉はシャボン玉です。
2024年4月20日 04:43
ぼくたちは言葉を゙使って生きていて言語のシステムの制約の下にいるように思えます。でも話されたり書かれたりした言葉はポンと存在するだけです。そこに意味を読み取るのは主観です。システムとは自縄自縛のような気がしてきました。長年信じた構造主義が今揺れています。
2024年4月19日 04:34
言葉を話すとは文様を描くのと同じでほかの人がいったん生まれた文様にどういう意味を思い込むかは制約できません。言葉とは願望だ、命令だ、といってもそれは話した人の主観限りのことです。書き言葉も同じです。生まれた言葉は万人に開かれています。
2024年4月18日 06:44
言葉の意味とは話す人や聞く人の一方的思い込みかもしれないと思うことがあります。話すぼくの思い込みと聞くあなたの思い込みとは一致しないで。お互いに一致したとかしないとか思い込むだけで。読み書きでもそうです。ぼくには言葉と意味の話がまたモヤモヤしています。
2024年3月22日 06:52
内田百閒先生は背広を着る支度に毎朝二時間ぐらいかけたそうです。それは時間のない人にとってはとんでもない贅沢です。みなさま、お金でなくても今余りあるほど持っているものを思い出してみると?たとえば若さ。年輪。勇気。腕力。友達。恋愛経験。そして言葉。
2024年3月4日 06:53
旧街道の跡を歩きました。昔とは様変わりした現代の景色にはちがいないけれど、懐旧の感情移入を゙しやすいと思いました。当時語られたさまざまな言葉がわれわれの言語に染み付いているかのように。DNAのような言語の力。人は言葉を継ぐ百代の過客です。