善悪が消えた日、私の本音⑨
1.善悪が消えた
前回の続編である。
「私に敵などいなかった」、という事実は私の心境に変化をもたらした。
既に自らの苦しみというものを克服していた私にとって、どうやら、他人の不幸というのは最後の気がかり、ラスボスであったようなのだ。
そして、私はそのラスボスを許してしまった。
他人の、この世の不幸というものを許してしまった。
その結果、私の中から善悪というものの区別が消えた。
今、私は世界のほとんど全てを肯定的に捉えている。
私は人間という存在に興味を持っていたが、ここに来て私自身の変化が面白い。
2.全ては等価である
善悪が消えたとは、全ての価値が一様になったということだ。
例えば、ウクライナの紛争を考えてみる。
今、ウクライナではロシアのプーチン大統領が人々を殺させている。
そこにある、プーチンの選択も対抗するゼレンスキーの選択も、人々を殺すロシア軍兵士の命も、人々を守るウクライナ軍兵士の命も、蹂躙されるウクライナ市民の命も、全て等価だ。
ウクライナ市民の価値が高くて、ロシア軍兵士の価値が低いということはない。
そこに価値の差は全くない。
3.人に必要なもの
全てが無価値で、どうでもよくなったんじゃないか?と思った人もいるかもしれないが、そういう消極的な気分でもない。
どちらかというと、全てを善いものとして受け入れられる、というのが近い。
人の喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、幸せも、苦しみも、成功も、失敗も、生も死も等しく善いと言い切れる。
そして、思う。
人の感情というものは、その人にとって必要だから存在しているのだと。
そして、必要がなくなったら、感じなくなるものなのだ。
今の私の様に。
4.残された世界
私が感じる感情の種類と幅はどんどん狭まっている。
今、私に残されているのは、優しく、穏やかで、心地よく、楽しく、面白い、そんな世界だ。
怒りや不安、恐怖、苦痛といったものは今となっては懐かしい感覚だ。
そして、私の共感力は今後どんどん落ちていって、他人の不幸を感じることもなくなっていくのだろう。
そういう予感がある。
この傾向の原因を考えてみると、やはり、全てに必要がなくなったからと考えるのが自然に思える。
必要があれば、その必要な時に、感情というものは戻ってくるのだろう。
5.私の果て
私は、さらに、私のこの先を考える。
私は多分、最後にはこの宇宙の様になるのではないかと考える。
宇宙はあらゆるものを受け入れて、肯定する。
淘汰され、滅んだとされるものも、世界のどこかで形を変えて引き継がれている。
そこにあるのは規則正しい変化だけだ。
その変化が生きるということなのだ。
そして、宇宙の変化を突き動かす原動力が、私に残される最後の感情になるのだろう。
最後に残るのは好奇心だろうか?あるいは無だろうか?
答え合わせをできる日が待ち遠しい。
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