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2024年11月28日 「日本の伝説」感想


柳田国男の「日本の伝説」をaudibleで聞いたので、その感想です。
なんと、青空文庫で無料で読めます!

ご興味が出た方はどうぞ覗いてみてください。


子どもに向けて


「日本の伝説」は、柳田国男が子どもたちに向けて書いた著作です。
初出は、「日本神話伝説集」日本児童文庫、アルス1929(昭和4)年5月となっています

平易な言葉で語りかけるように書かれており、
とても朗読向きの作品です。
時代がかった言葉遣いが、「柳田国男という偉い先生が子どもに教えます」という感じで、
よいのです。
私は昭和の早い時代の、こういう文章のトーンが危険だなぁと思いつつも、好きです。
今では見かけなくなった類の文章です。 
近代化と大国への野心、先進国たろうとする自負が、気骨が、文章の中に埋め込まれていますを
現代の文章に、こう言った要素があると、鼻につくことでしょう。
でも、
私たちの国も、その昔は若く、理想に燃えていた時期があったのです。
今はこの国のどこにも見当たらないそういう時期の熱が、この著作からも感じられます。
ちなみに、私には昭和初期の日本が持っていたあの熱やロマンにどうしようもなく惹かれているところがあります。危ない嗜好だというのは、自覚ありです。
自分の属性(女性)から考えると、あの時代に生きていていいことはなかっただろうというのはわかっていますが、
あの時代の熱には強く心惹かれてしまうのです。
特に、柳田からの若い人たちに対する民俗学への誘いの文章は、
柳田が心底、民俗学という学問を作り上げそして残していきたいと考えていたのだと感じさせられます。

伝説と昔話


柳田はこの本の中で、伝説と話の違いを次のように説明します。
「伝説と昔話とはどう違うか。それに答えるならば、昔話は動物の如く、伝説は植物のようなものであります。昔話は方々を飛びあるくから、どこに行っても同じ姿を見かけることが出来ますが、伝説はある一つの土地に根を生やしていて、そうして常に成長して行くのであります。雀や頬白は皆同じ顔をしていますが、梅や椿は一本々々に枝振りが変っているので、見覚えがあります。可愛い昔話の小鳥は、多くは伝説の森、草叢の中で巣立ちますが、同時に香りの高いいろいろの伝説の種子や花粉を、遠くまで運んでいるのもかれ等であります。自然を愛する人たちは、常にこの二つの種類の昔の、配合と調和とを面白がりますが、学問はこれを二つに分けて、考えて見ようとするのが始めであります。」

柳田のこの説を取るとすると、昔話はより人間由来であるが故に、地域が離れても、同じものであり、
伝説は土地由来である故に、土地固有の発達があるということでしょう。
先の文章は、伝説には、土地の影響というものがあるという例え話であるわけですが、
伝説を梅や椿に、昔話を雀や頬白と表現するところが、何とも美しく、粋な比喩です。
梅や椿が大きく育ち、その枝に雀や頬白がとまる姿が目に浮かびます。
名文ですね。

伝説は変容する


柳田国男はこのあと、咳のおばさまという東京の伝説を取り上げます。
それはごく簡単にいうと、
「おばあさんの石の像にお祈りすると小さな人たちの咳が治る」という伝説です。
そして、江戸時代には方々に同様の像があったこと、中のよくないおじいさんの像と対であったこと、備えると良いとされるものや各地域の様子を乗り上げた上で、
「咳のおば様は実は関の姥神であったのを、せきというところから人が咳の病ばかりに、祈るようになったのであろうという説を、行智法印ぎょうちほういんという江戸の学者が、もう百年余りも前に述べていますが(甲子夜話かつしやわ六十三)」
と記しています。
伝説というと、我々は「変わらぬもの」のように考えますが、そうではなく、
伝説は変容していくものなのです。
もともとあった古い素朴な信仰が、時を経て、音が同じ違う意味として理解されて言ったり、別の信仰が重ねられたりして行くのです。
「変わらぬもの」などというのは言葉遊びに過ぎないのかもしれません。
この世に存在するということは、変容するものなのです。

理由と事実はすぐ転倒する


個人的に興味深かったのは、「〇〇神社の池にいる魚は皆片目である、不思議なことだ」という伝説の種明かしです。
柳田国男によれば、これは、「何か最初から目の二つある者よりも、片方しかないものをおそろしく、また大切に思うわけがあったので、それで伝説の片目の魚、片目の蛇のいい伝えが始まり、それにいろいろの昔話が、後から来てくっついたものではないか。」ということですし、より詳しく言えば、
「つまり以前のわれわれの神様は、目の一つある者がお好きであった。当り前に二つ目を持った者よりも、片目になった者の方が、一段と神に親しく、仕えることが出来たのではないかと思われます。片目の魚が神の魚であったというわけは、ごく簡単に想像して見ることが出来ます。神にお供え申す魚は、川や湖水から捕って来て、すぐに差し上げるのはおそれ多いから、当分の間、清い神社の池に放して置くとすると、これを普通のものと差別する為には、一方の眼を取って置くということが出来るからであります。」ということです。
つまり、「片目の魚がいるの。不思議」ではなくて、「大切な神に差し上げる魚は片目でなくてはならない」のですね。
人間は理由と事実をこのようにすぐ転倒してしまうのです。
興味深い…。
人間のいう「真実」は当てにならないものなのかもしれません。
我々はすぐわかりやすい物語に作り変えてしまうのです。

全てが明快に説明されるわけではない


この後の、行逢坂(神々がそれぞれの領地を決める話)、についてもなかなか面白かったです。
ただ、この本は児童向きですし、取り上げられた全ての伝説が説明されたり、解明されたりするわけではありません。明快な説明を期待して読むと、読後感としてはややモヤモヤとするでしょう。
子ども心に戻って、いつか聞いた伝説を思い返す、つもりでお読みになることをお勧めします。
また、「自分は日本人だ」と思っていても、伝説の中の出来事や心の動きについていけないことに気づく時、不思議な気持ちになるかもしれません。
暖かい部屋で、熱いお茶と美味しいお菓子を準備して、のんびりした気持ちで、読むと良いような気がします。

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千歳緑/code
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