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Moon Wood Dialy

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その名の通り、月曜日と木曜日に更新される約500文字の雑文。都内に住むある四十代会社員の虚実入り乱れた日常生活の記録。
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2021年10月の記事一覧

残像

残像

その町に来たのは二十年ぶりだった。

駅前に数台のバスが止まっていた。その前面に表示されたローカルな行先を目にした途端、あの頃がまるで昨日の事のように思い出された。

就職して最初の職場がその町にあった。田辺さんはニ年先輩の女性で、親切で笑顔が素敵な人だった。僕達は次第に仲良くなった。でも、飽くまでも仕事上の付き合いだった。三年後、田辺さんが転勤した。彼女が居なくなってこれほど寂しい気持ちになると

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赤ちゃんのマボロシ

赤ちゃんのマボロシ

取引先の斉藤さんと電話で話していたら、後ろで赤ちゃんの泣き声がした。自宅でテレワーク中らしい。「赤ちゃんがいるんだ。今度会ったらお子さんのことを聞いてみよう」と思う。父親似ならば、多分ハナコの岡部さんそっくりの乳児であろう。

さてそれから数週間、斉藤さんに会う機会がなかった。次第にあの時の記憶が薄れ本当に泣き声がしたのか自信が無くなってきた。今度会った時、私が「赤ちゃん、何ヶ月ですか?」と話を切

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島崎専務のdistance

島崎専務のdistance

定時だ。

即座にパソコンの電源を切り、席を立つ。長年帰宅部で研鑽を積んできた成果だ。そわそわしながら下りのエレベーターを待つ。チャイムが鳴り、ドアが開く。すると、今日も島崎専務がいた。

島崎専務はかなり偉い人だ。専務のスピーチを何度か遠目に見たことがある。当然、私のような末端の社員のことなど知る由もないだろう。他社の人間だ、と思っているかも知れない。

4,5人がエレベーターに乗っていた。噂に

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寒がる男

寒がる男

十月のある日突然東京に北風が吹いて、一気に寒くなった。

その日は仕事で森田さんと外出した。彼もまた40代のまごうことなきおっさんである。幸い私は妻の忠告に従い上着を羽織ってきたが、何と彼は半袖であった。

街を覆う雲はますます厚くなっていく。コンビニでコーヒーを買ったがこれは失敗だった。南方の飲物は温かくても体を冷やす。

森田さんが「寒い、寒い」と言う。上着を貸すべきだろうか。もしこれが若い男

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レタスの根性

レタスの根性

私は人から貰ったムスカリとベゴニアの栽培に熱中し始めた。

ある時、他の雑草とは一線を画する気品ある草が生えてきた。どうもレタスらしい。「植えた覚えもないのに不思議な事だ」と思いつつ成長を見守ることにした。
その後レタスは順調に成長し、そろそろ収穫すべきかどうか思案していた矢先、突如一匹の青虫が現れ一夜にしてこれに壊滅的打撃を与えた。私は己の優柔不断を呪った。しかし物は考えよう、こうなったら青虫が

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楽して、痩せたい

楽して、痩せたい

「痩せたいなあ」と思いダイエットコーラを飲む。すると何と言うことだろう。お腹が空くではないか。空腹に耐えられなくなった私は街灯に引き寄せられる蛾の如く帰宅途上にある丸亀製麺へ入店。ぶっかけうどんに大量の揚げ玉を投入して賞味。更に家に帰って普通に夕食も食べた。

大体、楽して痩せようという了見がいけない。ハードワークなくして理想の肉体を手に入れるなど土台無理な話なのだ。まあ人生楽なのに越したことは無

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マルエフ

マルエフ

スーパーで新発売の麦酒を購入。その晩コロッケをつまみに飲んでみた。舌に苦みが残る昔の麦酒の味だ。と思ったら缶に1986年の復刻版とある。「何を食べさせても同じ」「違いが分からない」と顰蹙を買いがちな私の鈍舌(どんたん)も捨てた物ではない。しかし、その頃の私はファンタこそ至高の飲み物と信じて疑わない男子小学生だったはずだ。なぜ麦酒の味を知っているのだろう。

団地のダイニングで父が野球を見ている。食

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高輪ゲートウェイ

高輪ゲートウェイ

私は怒った。
高輪ゲートウェイ、何という軽薄な名前!不動産でひと儲けしようという意図が透けているではないか。そもそも新駅の開設は私にとって単純に通勤時間の延長を意味していた。
しかし、今考えるとなぜそんなに怒っていたのかよく分からない。開発のために駅を作り適当な名前をつけるのは明治以来の伝統的なやり方だ。むしろ今をときめく隈研吾さんの駅を一目見たいと思った。それである晴れた日の朝、何の用事もないの

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消しゴム

消しゴム

彼女はミスに気づき、議事録の上を消しゴムで軽く擦った。すると跡形もなく字が消えた。彼女は消しかすをさっと払った。

上手に消しゴムを使える人に憧れる。そういう人は大体字も綺麗だ。私は昔から消しゴムの使い方が下手だった。筆圧が高いから何度も力ずくで擦らないと消えない。しかもミスが多い。そうこうしているうちに消しゴム自体が黒くなってくる。手も黒くなる。書いたり消したり繰り返すたびにノートが薄汚れる。先

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好きなうた、月のうた。

好きなうた、月のうた。

風雲急を告げる欧州
大西洋航路上の客船ブリタニア号

諜報機関の男が敵国の大使秘書と
恋仲になる

帰還命令が出た
次の寄港地で姿を消さねばならない
その時になって
男は女を本当に愛していたことに気づく

月が照らす船室で
最後に見た彼女の横顔は
あまりにも美しかった
【月光:B’z】

国家が結婚相手を決める近未来
出会ってしまった二人

監視の目を掻い潜り
鉄橋の下での再会
轟音を響かせて

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雪虫の街

雪虫の街

「島田工業?道わかる?」
タクシーの運転手が聞き返した。持っていた地図は印刷が薄くてよく見えなかった。しかし、なぜカーナビを使わないのか。
「リサイクル工場かなぁ」
違う...。私は自らのスマホでナビをする決意を固めた。

急に「雪虫見たことある?」と聞かれた。
「東京も雪降るでしょ。雪虫いないの?」
記憶にない。それより早く迷わずに着いてほしい。
「この前雪虫いたんだけど。やっぱり大雪山に雪積も

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めんそーれ北海道

めんそーれ北海道

旭川に来たらラーメンを食べねばならない。

その店は既に満員だった。外で待っているとただならぬオーラを放つ老人が注文を取りに来た。どうやら先代の店主らしい。
「初めてか?」と聞くので「そうだ」と答えると、初めての者には醤油ラーメンしか勧めないと言う。優柔不断な人間には有り難いサービスだ。

前店主曰く、感染症にも関わらず世界中から客が来るとのこと。だが東南アジアからは来ないらしい。渡航禁止のせいだ

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イロトリドリノセカイ

イロトリドリノセカイ

子供の頃、毎年夏と冬に東北の祖父母の家に帰省した。到着するとまず挨拶をしてそれぞれの近況を伝え合う。でも、僕たち子供は外が気になって仕方がない。窓から入道雲が見えると早く川に行きたくなる。雪がしんしんと降っていたらそり遊びがしたくなる。旭川駅であの時の感覚を思い出した。

歩行者天国を駅に向い歩くと次第に駅舎の大きなガラス面を透過して向こうの様子が見えてくる。青い空、白い雲、紅葉した木々。向うに何

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