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なにがいいんだかわからなくなるんです 《さよなら商業デザイナー(19)》

── 前回「題名のない人生のペインティング」の続きです

さよならをする前に、一人の人として「こぼれ話」を。

「さよなら商業デザイナー」この主題にて、今回で最終回の予定だったのですが、予定を変更して最終回の前にひとつだけ。これまでの「品質の価値」の話とも言えるのですが、あえて言い表すなら逆で「価値の品質」について、最後にこぼれ話をさせてください。

前述の「デザイン「いろは」を知らずして」の中で、『デザイナーが社会の中で肩を落とす時』や『社会の中では人としての好意による「無償の行為」は「無料のサービス」と認識されることもある。』等にて、一例としても少し述べましたが、同じ様な話でも、ある意味「ガッカリする」ことではないこともあるんです。


なにが人の暮らしを豊かにさせ、その豊かさの感覚はまた移り変わって、価値観の基準もまた常に変容していく。

デザインでも製品や商品や美術工芸品などにおいても、クオリティーの高低があるのは当然だと言えるのですが、その職業の視点から、なにがなんでもクオリティーの低さが「いやだ」と「よくない」とか、そういうことを私は拘っているばかりでもないというか。

そんな私にも、ある意味で答えの出ないことがあるのです。というお話です。


「価値」の「品質」が変化する時代の狭間に生きている

言いたいことを言う前に、まずは概要的なことを書きます。テレビでも「年賀状の作り方」などの教養番組があったり、どの地域でも、パソコン教室などのレクチャーやセミナーがあったりして、そこに子供から80歳くらいの方までも受講したりしている時代が、既に10年以上ある現代ですが。ある意味で個人の広告は、パソコンとプリンターで完成される時代になりました。

デジカメにはじまり、スマートフォンとSNSの出現以来、数多くの写真や動画がネットにも氾濫するかのように転がっているようになりましたし、作品から日常のおもしろ写真に至るまで、ネット上に投稿してその活動を完了するかのような、小さな写真展やそんな雰囲気写真家のような方も増え、かつてのバブル期以上に、ただただ写真を撮りまくって、それを思い出として共有する海外旅行者の代表たる日本人も、きっといまだに増えていることでしょう。

クラウド化は進んでいますが、未だスマートメディアのちっちゃいのに、この先、何年分くらいの写真を、いったい何年くらい先まで保存しようというのだろうと思う傍観する私は、たぶんメディア自体がそのうち知らぬ間に、ぶっこわれているだろうって気がして、しかしその頃にはその人の寿命も尽きているかもしれない。その上、インクジェットでプリントした写真も、孫の代には、きっとあっと言う間に色褪せていくかもしれない。などと不届きな思考を巡らせて、答えの無い思考を処理しています。

私の個人的感覚では、現在のパソコン時代は、いまはまだ不格好でゴツゴツしていて、重機的で、感覚的に五感に繋がっていない、やたらめんどくさく古くさい時代に思えるのですが。

iPadの登場は、そんなパソコン時代に、是非終止符を打ってほしいと願っていた次世代の訪れの最初の時点だとも感じてはいますが、変化のはじまりに過ぎない形で、創始者スティーブジョブズなきいまは行く先がブレてしまい、後退しているかのようにも感じます。この現象にも商業主義という社会ベースの反作用を感じます。

利便性は向上したのは確かですが、外出先などでもスマートフォンやゲーム機に下を向いたまま無心になっている子供の姿などを見かけると、これが本当に「スマート」と呼べるものなのだろうかと思ってしまいます。

そんな先進技術が人を本当の意味では、人にとっての豊かさを進化させるのか、はたまた退化させているのか、それがわかるまでには、まだまだ時間はかかりそうです。


社会ではなく、人間本来の需要の価値にふれあうとき。

そんな発展途上なちょうど中途半端な進展の時代に居てですね。ここからが本文なのですが。

なんかね。楽しそうなんです。
嬉しそうなんですよね。

そういういろんな方が、ワードでチラシとか、地区の会報やなんか作って、写真も貼付けて、エクセルで会費なんかも計上して、プリンターで刷って。

年賀状も作ったり、ホームページってやつを作ったり、それによって世代間の交流も生まれたり、各地域でひとり、なんだかそういうのに長けている方もいて、その方が近所を回って、みんなにパソコンってやつを教えたり、なんか作ったりして、すごく嬉しそうで。

そういうのを、私もこういう職業だから、みんな私に一度見せにきたりもするんですよね。自分の親以上の年頃の方たちが、「どうよこれ」と言って。

私は「なんも言えねぇよ」って、「評価以前だよ」って、もちろん内心は思うんですよ。でも、「うん!いいですね」なんて言いながら。


すごく嬉しそうなんです。
いいなぁ。よかったなぁ。って、思うんです。

たまに、それを横で見てたりするスタッフとかから、「また、ウソついてる。普段だったら、あんなの作ったら怒るくせに」とか、言われるんですよね。確かにね。確かに、そりゃそうですよ。こっちは「仕事」なんだから。でも、本心でもあるんですよ。「いいですね」って。

たぶん、それって、気持ちが「いい」んです。言うならば、そのチラシが笑ってるような。そこにまごころを感じるような。

いいなぁって、本心で思うんですよ。デザイン的に言ったなら、どうしようもないかもしれないんです。でも、いいんですよね。


「なにがいいんだか、わからなくなるんです。」

だから、ずっとああだこうだとここまで述べてきた私ですが、憤りとか、辞めたいのに辞めなかった気持ちとか、それこそ、ここまで続けてこれたのは、そんなある意味で「矛盾」した、答えの無い思いや感覚が、ずっとどこかにあったからなのかもしれないなと思うんです。

たまにというか、本当はいつも殆どの面において、そういう自分がいるんです。「品質」とはなんなのか。物のクオリティーや技術力やセンスだとか、かっこいいやかわいいだとか、高性能だ高級だとか、本当の「品質」とは、そういうことではないのではないかと思えてくる私がいるのです。

わからなくなるんです。なにが「いい」のか。

なにがいいんだか、わからなくなるんですよね。

つづく ──

20170330 6:14



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