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「憤り」の正体を追って 《さよなら商業デザイナー(4)》

── 前回「すべては、一身上の都合。」の続きです

「憤り」という怠慢

── そう、すべては「一身上の都合」なのだ。私がどんな気持ちで、どんな状況に至って、どんな覚悟を強いて、どんな言動を表しても、そこにどんな理由があろうが、それはただの私だけの都合なのである。他者から見れば、知ったこっちゃない。 ── 《前回内容より》

利害関係などにある場合は、もちろん不利益を回避する時点までは、確実に責任をもって行わせていただくのだから、それも問題は無い。そして商業デザイン部門として「商業社会」の中での業種の一部、業者のひとりであるのだから、代わりはいくらでもいるだろう。

人間付き合いとは、似ているようで別ものである。これも経験上、学んだことだ。

無論、逆説として、ビジネスライクや利害関係やドライな関係でも、どんなに体のいい名称や契約をしていても、その実体は人間関係である。とも、もちろん言えるのだが、それでもやはり所謂、自然で無償な関係とは似て非なる感覚がそこにはあるだろう。

しかし、すべてのご縁も価値観も千差万別なのだから、それらに定義は不要である。だから人間関係は、この世界で生きる上で、最大に難しいことでもあり、また、何よりも自然で簡単なことでもある。

「人間付き合い」思えば、私はそこがいまいち理解できないまま、商業社会に気がつかずに自ら入り込んでいったような気がする。

ふと思ったが、もしかすると私は「仕事」や「業務」ではなく、本当はただ人間関係に「憤り」を感じていただけなのかもしれない。

── 問題は、そんな「憤り」という状況や状態に対して、これまで私がいかに対処してきたのかという点だと思われる。既に結論は出ている。私はそれをいつからか、ずっと「諦め」てきたのである。 ──《前回「すべては、一身上の都合。」より》

あらゆる憤りの根源を少し探ると思えてくるのは、「憤り」の矛先と原因があるということだ。

矛先には、やはり外部的要素として、他者などにまつわる事象を責める感情がある。

逆に原因には、もちろんそれらの他者的な要因はあるが、先述した「すべては捉え方次第」という定義で捉えるならば、そこには自己の内的要素として見えてくるものがある。

デザインや企画や構成と同じであるが、そもそも「目的」「コンセプト」などといった「要件定義」が、曖昧なのである。

自分に対して「概要」が曖昧であり、それは外交において、社交や社会的に謂わば「看板を掲げていない」ようなものであろう。

「私は○○である」と自分自身で決めてもいないのに、他者と関わろうとするならば、そりゃあもれなく「憤り」が“外から”やってくるだろう。

即ちここでも、結局、自分が原因なのだ。


面白いと感じていたことがある。最も人によって異なることではあるのだが、一括りにしてしまうことを許していただきたいが、所謂「社会人」の方々。無論、大抵の日本人がそうかもしれませんが、そういう方が依頼者としてお客様になっていただいていることが大半です。そういうお客様の特徴とでも言いましょうか。

常々、面白いと感じさせられるのは、皆、それぞれ勝手に相手である私の肩書きを名乗っていることについてです。

Webサイト制作をしたお客様は、私を「Webデザイナー」と勝手に呼んでいるのですが、私は一度たりともWebデザイナーと名乗ったことはありません。

他にも、グラフィックデザイナーやクリエイターだとか、アートをやってる人などとか、ある程度の的を得て言ってくれる方もいれば、ロゴのデザイナーだとか、この人は「コピーライター」なんだよ!と、第三者に紹介されることもあります。

その他には、映像作家さんだとか、フラワーアレンジやギフトデザイナーだとか、イベント会社の人だとか、稲作農家とか、お米屋さん・・・だとか、(それ以外にもありますが、以下省略として)本当にもう皆さん、それぞれで、とても可笑しくなるんです。

確かに、どれも間違いではないのですが。特に訂正もせずに私は、いつもそのまま笑っています。

そこで考えると、人とは他人のことに興味はそこまでないということ。それはもう、当たり前に等しい事実だとも思いますが、発展させて表すならば、表現は少し変わってきます。


「人は他人を、自分の好きなように解釈している。」もっと言えば、「人は他者の実体を、認識していない。」

そして(かなり説明を省きますが)定義してしまうならば、「他者という存在の認識とは、外界には存在しておらず、自分の世界の住人である。」

そういう定義が成立するのではないかと考えられます。(かなり強引ですが)そこに、あえて主題に寄り添って余談を挟むならば、これもまた「広告」と同じである。いわば現代における「広告」とは、そこには実体は無いものなのだ。

ここでは、広告の話も心理的な話も掘り下げずに、一旦そうであると仮定して進めると、結局、「憤り」の対象とは、自分自身ということになるのである。

既述した内容をまとめると、即ち。


前述したあらゆる他者視点からなる肩書きには間違いは無く、結果、私自身が行っている。もしくは、行ってしまっている仕事だということだ。

いくら私自身が否定しても、それらは事実なのだ。

故に、私はずっと、ハッキリとした肩書きでもある「看板」をかかげずに、取引や商売を行って来たのである。

そのことに対して、他者への「憤り」を感じるというのは、私という人間の、甚だしく、怠慢そのものである。


もちろん、実際には自身の手の及ばない外的要素はたくさんあるのだが、確かに、すべては自分ということも、これまた事実であると認めざるを得ないことだと思う。

昨今の新語「ブラック企業」問題などでも当てはまると思うが、単純に、「嫌なら辞めればいい」だけなのである。

それを許容してしまっている自分自身にこそ、本当の問題がある。

そうなのである。きっと私は、それこそ「憤り」を自分に許してきてしまったのであろう。


「憤り」の境界線

そう、私はそんな「憤り」を自分に許し、自ら課せてきたとも言えるのだ。
思い返せばその通りだと思わざるを得ない。

結局、仕事での関係やお取り引きで生じる人間関係内での「憤り」としての、その大半は、そこに要点があるのかもしれない。

私から見た世界では、ご依頼に対して「これは私の領分ではない」「これは私の仕事の範囲を越えている」と、私自身が思ってしまっているということなのだと思う。

つまり、「なぜ私はこんなことをしなければならないのか?」「なぜ相手は、こんなことを私にさせるのだろう?」と、感情や思考として、内面では、そのように感じているということなのだから。

しかし理由は明確で、そもそも、引き受けなければよいのだ。範疇を越える時点が訪れたなら、お断りをすればよいのだ。この場合、ストレスとして「憤り」を感じている私のほうこそが、問題なのだ。

確かに、それが事実であろう。


それこそ「現代社会人」として、初歩の基本概念的なことかもしれないが、そんなルールのようなことが、私はなにもわからずに、ズルズルとこうしてここまで歩いて来てしまったのであろう。

もちろん、現在の私は実際はその領分に対して、そしてそんな自身に対して、昔よりは対応が出来てはいるのだが、気がついた時にはすでに遅かった気もする。


そこで、やっとこの長々とした話を先に進めることができそうなのだが、その上での要点がまずひとつある。

では、私のその「範疇」「領分」「本分」という境界線は、いったいどこに位置していたのか?ということである。

そしてそれはまた、反面から言えば、「憤り」の境界線は、どこからだったのか?

先述したことでもあるが、結局は、私は「デザインすること」自体は、まったく嫌いではないのである。それでは、辞める必要はない。

ここまでの内容のとおり、すべては、自分自身の捉え方次第で、きっと何事も未来は変わってくるであろうことも確かに思う。


もう一度確かめる必要性が見えてくる。

そもそも私は、デザイナーを辞めたいわけではないのだ。ならば、本当に「辞めたい」ものとは、一体なんだというのか。


即座に解決に至る解答のようなことをこの時点から続けて書いていきたいとも思うが、一度、概略としての結論のような部分をまとめてみたい。

詳細や事象等の検証は、デザインについてや広告論や商業主義社会への物議的なことにも触れることになると予測するので、そういうことは、そのあとでよいのだと思っている。

前述したこと。その「憤り」の正体とは「怒気」と「呆気」であるのではないかという点である。そのことについて、少し向き合ってみようと思う。

つづく ──

20170212 19:25



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