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地球がグラウンド・ゼロになる日 《 3.11後からの日本を案ず(17) 》

── 前回「人災と天災」の続きです

グラウンド・ゼロ

世界で唯一の原子爆弾投下による被爆国である日本。その『傷跡』それは日本国民のみならず、現在の人類全体においての傷だと言い切れます。しかし、現在も原子爆弾などはこの地球上から消えてはいません。きっと、それが、現在の人類の『本当の姿』であり、それはつまり『その程度』ということなのだと思います。

広島や長崎の原爆跡地も爆心地として、9/11以前から、まさに「グラウンド・ゼロ」とされていた象徴的な場所です。原爆ドームも今では世界遺産として、また現地には平和記念公園などとして、ここでも後世において、常に未来の子孫である人類への『平和』のシンボルになっています。

9/11のワールドトレードセンターの跡地が広島の原爆ドームを連想させることを理由に、アメリカ国内で『9/11 = ground zero』と報道され「グラウンド・ゼロ」という名称が定着したようですが、現人類で唯一の原爆投下による被爆地である国の日本人の多くが、きっと「グラウンド・ゼロ」とはニューヨークのあの地名みたいな認識だったのではないかと思っています。

本来は、特に広島の「原爆ドーム」が『グラウンド・ゼロ』と呼ばれる平和の象徴だったということを知らない日本人がほとんどでしょう。そうです。9/11以前は、グラウンドゼロと言えば、その代表は「広島の原爆ドーム」だったのです。


“ゼロ” のループから人類は脱却できるのか?

『グラウンド・ゼロ』文字通り、たぶんあの戦時下での東京の焼け野原のように、まるで『“ゼロ”と化した土地』や『“ゼロ”に帰した場所』のような言葉なのでしょう。そしてそこに意味されるのは『爆心地』という意味です。つまりは『人間の業によって“ゼロ”に帰した場所』ということであり、だからこそ後世への遺産として、それは平和の象徴となるのでしょう。

まるでそこには、人間として、言葉にならない“祈り”が満ちた神聖な場所のように感じる人も多いでしょうし、ある意味で観光地としても多くの人間がメモリアルとして認知するスポットでもありことでしょう。まさにそこには『平和』があることは確かかもしれません。

しかし、どうでしょう。よくよく考えたら、もっと離れて見たなら、まるで『人間の自作自演劇』でもあるのですよね。自分たちでぶっ壊して、自分たちで悲劇にして、自分たちで悲しみ怒り、そこに最後には“平和”と名付けて、まる反省と再生の未来へ向かうのかと思えば、ずっと戦争してる。そしてまたなにかが壊れたら『平和』と名付ける。その繰り返し。

その他の生物や、その度に被曝させられる地球から見れば、とんだ茶番劇にずっと巻き込まれては、挙げ句の果てには『地球を守る』とか言われちゃう始末です。

そんなことを繰り返しているこの地球の人類と、それらの人類が認識している文明。きっと宇宙から見たり、過去と未来までを同時に俯瞰して眺めると、ずっと、そんな『ゼロ・ループ』を繰り返しているように感じるかもしれません。

一説によると『地球上の大きな砂漠も古代の核戦争によって生まれた』と言われます。アトランティスなどもなぜ海中に沈み滅んだのか。あらゆる文明がいつか無に帰しては、また次の人類がそれを知らずに新たな文明を築いていく、そしてまた…という、地球では幾度そのように『ゼロ・ループ』を繰り返しているのでしょうか?


災害のあと、あなたならどうするのか?

なんどもなんども、そうして学べないのか。どうして繰り返すのか。きっと文字や絵や言葉などによる口伝や、またはただ遺跡となって、たぶん人間は、なにかを後世に伝えたり残したりしてきたのではないか?そうも思えます。

人生に起こるどんなことでも、人はなにかを残したがるものだと思うからです。または、特に「後悔」や「反省」などは特にそうだと感じます。自分の子孫には同じ過ちや失敗をしてほしくないだとか、または、自身の命が尽きるならば、やり遂げられなかった研究やアイデアや物事を、誰かに託したくもなるものです。

動植物や昆虫などでしたら、完全な解明はまだされてはいませんが、個体ではなく種族などの全体でひとつの意識や情報を共有しているようで、「全体で一体の意思」のように、『単体の経験が全体の経験として伝わる』ということが可能なようですが、人間は違いますので、世代や時代を越えて物事や情報を共有するには、なにかしらのサインやアクションが必要になります。

過去や先人からのそういう情報や現象としての伝承や教訓などのひとつに「地名」があります。名前をつけるというのは、そこに意思や意志があるのです。なにを伝えるべきなのか、形として伝統行事や祭事などをおこしたり、昔話や噂として恐怖を煽るのか、民話や神話として良心にうったえかけるのもよいでしょう。それらもまた知恵です。どんな趣旨を軸になにを伝えるのか?


水の記憶、地名の記録

日本の地名には様々な意味や歴史があり、特に災害の記録なども地名には含まれています。有名な例としては、水害の多かった土地には「さんずい(氵)」が付いていたり「水」に関する名前がよくついていたりします。過去に洪水や河川の氾濫などによる水没被害があった土地だと時代を越えてもわからせるサインを残してあるのです。

特に日本は島国でもあり、海に囲まれ、地域によっては低い土地も多いですから、それほどに「水」とは共存を余儀なくしてきた民族なのです。そして、現代の研究結果としては明確になってきていますが、水は伝達物質でもあり、また水自体も記憶を持っています。たとえば川を消しても、いざ水が流れることを再開したならば、必ずもとあった川の場所を目指し、記憶に沿って流れ、川が復活するのです。

そのように氾濫しやすい土地や過去に洪水や津波があった場所は、時を経ても、またいつかもう一度、水は記憶をたどるものなのです。そういった知識や知恵も、先人たちは『土地名』や『伝記』などに含めて伝えて来たのです。たぶん、未来のためです。

そうして先人たちが残してくれたメッセージを、経済的な市町村合併により観光地としてや転居者等に好まれるために所以も由縁もない名称に変更してしまったり、危険な場所にも関わらず建売物件として販売しそこに住んだりと、つまりは一時代前であれば、住みつかなかった場所にも現代では民家を建てて、しかも行政や法や保険などにしがみつき安全を約束させる。もしくは、補償金として安心を利益に変えたりもするのです。

先人たちの願いや想い。そんなメッセージも現代では通用しません。快適なハイクオリティーライフなステイタスを維持するためには、伝統や警鐘なんかさえもおせっかいなのかもしれません。


なんでまた同じ場所に住むの?

あくまでも個人的な私個人の私感ですが、東日本大震災から10年後のいまにあって、本当に私が驚いていることがあります。ツイッターやインスタグラムなんかのSNSなんかでも見かけますし、たまに報道番組なんかでも特集する内容にもあって、それらを見かけるたびに「どうして?」と、心底、驚くというか、正直なところ、心底、呆れています。

あの震災地というか、特に『津波のきた場所』に、また家や街を作っていることです。あの方達はなにも学んでなかったのでしょうか。懲りていなかったのでしょうか。あげくのはてに「まだ家は津波で壊れてしまったままで、国とかがまだ直してくれないから、住めない。」みたいなことを平気で、しかもそれがまるで正義のようにも口にしているように感じる方もいる。

『そこがダメになったら、他所に住めばいいじゃん。』なぜそうならないで、どうしてもそこにとどまり続けるのかが、私には理解ができないのです。

原発のとなりに自分で住んでおいて、保障金や補償制度なんかをもらい、いざ原子炉に異常が生じたら、今度は被害を訴える。そんなにどうしてもその場所がいいなら、爆発後でも、また住めばいい。—— もうね。まるで、もうそういう話と一緒だと感じてしまうのです。

ただ一言です『じゃあ将来また地震や津波が来てもなにも言うなよ』って。そこは危ないよって、わかっていて、それでも住むのだから。


履き違えた正義が古典という基準になる時代

先祖代々そこに住みどうしても愛着があるなどを理由に、リスクも覚悟し受け入れた上で、その場所に居着くのならなにも言うことはありませんし、それでよいと思います。ここで挙げているのはそのような方々のことではありません。様々な方々がそれぞれに各々それなりに十人十色で千差万別に、それこそみんな自由でいいのは当然ですので、誰もが自由に好きな場所で生きればよいのです。

ここで述べているのは、なんかそういう自然な心の動きとは少し違うような言動があるということです。 —— 例として、ふと見かけたインスタグラムのとある方は、東日本大震災関連の写真を掲載しつづけては『東日本大震災を忘れないように投稿しています。あの日を忘れず …(省略)… がんばれ日本』などというコメントを書き込む。 —— こういうことに関しても、すべては自由です。

しかしどうしても思ってしまうのは、「そうしないとなぜ忘れちゃうの?」ということです。そして他にも『南海トラフに活かされるように…』なども書いています。本当にその写真とかを載せることで後世に活かされるものなのでしょうか?そしてもっと言うならば「忘れちゃなぜダメなの?」「そんなに人は忘れやすいの?」なども思ってしまいます。

つまりはここで私が思ってしまうのは「それが本当に後世に伝えたいことなの?」ということです。そしてもうひとつ「じゃあ3・11の津波被害は過去を“忘れたから”起こってしまったということなの?」という、なんとも腑に落ちないモヤモヤした気持ちになるのです。

そのようなことを、まるでそれが “愛”で“正義”で“良いこと”で“大切なこと”だと思い込んでいるだけなのではないでしょうか。本当にそれが未来のためだとか子孫のためだとか、人類や地球や生命をまもることや、本当に将来の防災のためになると、本気で思っているのでしょうか。また、本当にそういう善意としての心や感性で行なっているのでしょうか。では、なぜに3・11や9/11だけにこだわり続けるのか?

どうも私には、原爆ドームなどのグラウンド・ゼロという概念やモニュメントや、歴史上の惨劇や大震災などの資料館や、多くの『未来へのメッセージ』とは、それらの言動、つまり「忘れない!」ってのは、本筋とズレているとしか感じないのです。なんていうか『3・11』と銘打って「忘れない!」なんて言い始めた時点で、既に『過去のこと』として、古典という基準になってしまい、まるで教科書に書いてあるような『歴史化』されてしまって、まるでそれじゃあ文化遺産としての、まるでイベントととして片付けてしまっているのではないかと思えてしまうのです。


本当に “伝えるべき” はなにか?

現実にまだ目の前に進行中であるにも関わらず、既に「過ぎたこと」である平和のアイコンになっているのだと思います。本当の自然の流れこそに敬意があるのならば、必要のない未来に選択しなかったものは、風化していってこそ、私は当たり前の摂理だと思うのですが、そういった謂わば運動や活動、そして言動は、そんな自然に反する行為や思考回路に思えるのです。だから、わざわざ言葉にする。わざわざ声を上げる。そう、つまり『不自然』なんです。

これは世界遺産とか伝統や文化財とかと一緒で、もう現在の文明や文化としている概念が、現在からの偏った視点や善悪などの一方向から過去をカテゴライズして、まるで歴史の教科書のようにすべてを固定化してしまって、それを伝統の継承などという理由で、ただ模範として習い、また倣うという、ある意味でもう現文明の終わりをしめす思考回路だと感じています。

どんな発明や文化も、そういう次元になってしまっては、もう発展は難しくなると私は思っています。能や狂言や歌舞伎にしても、最初に発明した人は、はじめは必ず「異端」であり、伝統を駆逐するほどのセンセーションであって、いかにも前衛的でアバンギャルドで、常に過去や伝統や常識を破壊するほどの新しい改革とアイデアに満ちていたと思います。

しかし、そういった文化や文明もほどほどの頃合いになると、それらをなぜか固定化し教義化してしまい、あるポイントからは発展を拒み、永久に止まることを「良し」とする伝統という名の『化石の文化』になるのです。たぶん、現代人は既に、その「化石化」されたものを、なぜか不動のものとして、まるでそれが『正しい』と思いこんでしまうような『癖』を身につけてしまったのではないかとさえ感じてしまうのです。

例えば、どこかの地方の市議会かなんかの会議、もしかしたら大手広告屋さんや、都市部から企画屋さんなんかも呼んで、同席しているかもしれないような、そんなシーンを想像してみます… ——

—— 観光者がもっと訪れるように、隣町と合併して資本を安定化させて、都市部の文化や流行をたくさん取り入れて、この街を一新しよう。移住者も増えるように山や川の形も変えて、海にはテトラポッドで安全な海岸を作り、土の地面はコンクリート舗装をして、別荘などにも最適な自然もある環境を用意して、地価もあがるために、新住民の住みやすい大型施設やスーパーも呼び込み、不動産価値も上げていくために、古くさい地名はこの際捨てて、なんか若者がおしゃれだと思うような新しい地名に変更しよう! あ、そうだ!いいこと思いついたぞ!この土地に伝わるなんか残酷な昔話あったろ。あれさ、もっと結末をハッピーエンドに変えてさ、それをキャラクターにして、売り出していこうよ! ——

—— なんかまるでそんなことを推進して会議してまた賛同しながら、どんどん「先人たちが本当に伝えたかったもの」をいとも簡単に消費してきてしまったようなこの現代の日本人が、いったいなにを「忘れない」と思い、また、なにを「伝えたい」としているのか?私には疑問しか浮かびません。

本当の生きている価値を見つけようともしないから、気がつかないままに気軽に宝物とも言えるであろう独自性や意味を捨ててしまい、まるでブランド化するように価値を表面上で模倣し捏造していく。確かにそうして歴史は流転していくのですが、あまりにも現代の日本では、なにもかもをそういった『商品価値』としてしか捉えていないのではないかと危惧するのです。失ったものは決して戻りません。

地名や昔話などにまで残してくれていたような先人の知恵。きっと本気だったからこそ、そして自然だったからこそ、ちゃんと伝えてくれていたのだと思います。「忘れない」というイベントを忘れてもいない当事者に見せてその気になるのではなくて、本当に心の底から『伝えたい』と思うのであれば、もっと別の方法があると思うのです。

確かに人間自体も自然万物の一部ですので、進化も退化も表裏一体の上に、今の取捨選択が明日を描いていくのも自然摂理として常ではあります。しかし、今一度、そういった本当の趣旨を理解した上で、なにをどのように伝え残していくのかを選択しないと、いつしかこの日本という国や地球自体がグラウンド・ゼロになってしまう日も来てしまうかもしれません。

つづく ──

20210708



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